『愛の世紀/Eloge de l'amore』をめぐって 2


 九十年代の終り頃、蓮實重彦が、東大の総長になったというのを知った時は、少し驚いたが、やはり、蓮實重彦といえば、映画評論家、『リュミエール』誌の編集長、『表層批評宣言』の著者という印象が僕にはあった。
 あと、『リュミエール』の編集長をしていた頃に、村上龍や坂本龍一のやっていた対談集に出ていたり、名前は思い出せないが、少し高級な感じの女性誌があって、そこで映画評みたいなのを書いていた人。
 八十年代の後半頃だが、もっとも、その頃は、僕は映画というものは、まず見るものというか、撮影するもので、映画評論とかにはあまり興味がもてなかった。
 『リュミエール』というのは、写真がたくさんのっている、少し高い本だったし、それを読む読解力も、少し不足していたのもあるかもしれない。
 
 日本は、映画に関しては、つくり手よりも、見る側、そして評論家の方が多く、日本映画よりも、洋画ファンの方が圧倒的に多いところだ。
 だから、以前は、洋画ばかりを紹介している映画評論家に、時々、違和感の様なものを感じる事もあった。
 最近は、あまり会うことはないが、映画通の人の中には、自分の好きな作品を、自分のものの様に話す人が、結構いたりする。

 ただ、今世紀のはじめに、ゴダールの映画が、日本で観れるのは、おそらく、蓮實重彦の様な人たちが、一生懸命、ゴダールの映画を紹介してきたからだろう。
 ゴダールの映画は、フランスでも、ハリウッド映画みたいに、全国ロードショーはされていないと思う。

 よくは知らないが、映画に関しては、スイスや、フランスでも、日本とよく似た状況があるのかもしれない。
 日本では、一般的には、ハリウッド映画が一番、広く見られていると思う。日本映画はなくても、テレビドラマがあるからいいという人もいる。テレビに出ている人間は、そういうかもしれない。
 では、合衆国では、どうかというと、やはり、ハリウッド映画が広く見られていて、合衆国だけではなく、ハリウッド映画は、世界中に配給ルートがあって、世界中で見られている。そういう、僕も、ハリウッド映画のいくつかは、今でも見ている。英語のリスニングにもなるし。

 そのことは、今回の『愛の世紀』とも、すでに関係があるのだが、とりあえず置いておくとして、前回の『映画史』の公開の時には、蓮實氏は「映画史翻訳集団二〇〇〇」に参加して、自ら翻訳も手がけておられた。

 僕は、以前は、八十年代後半に、東京にいた頃は、ゴダールのファンではなかった。
 『気狂いピエロ』はリバイバルで見ていて、映画というものを考える時に、時々浮かんでくる映画だったが、あまり詳しくなくて、『映画史』が日本で公開される、二、三年前頃から、ある事がきっかけで、ビデオで出ている作品は、とりあえず全作品見たり、八十二年に出版された、本の方の『映画史1/2』を古本屋で見つけて買ってきて読んだりしていた。
 ちょうど同じ頃、発行されていた時には、あまり読まなかった、八十八年の冬に、とりあえず、休刊ではなく「INTERMISSION」になった、季刊『リュミエール 14 /特集 映画はたえず発見される』というバックナンバーも見つけたので、それも買って読んでみたら、やはり、ゴダールがカンヌ映画祭で行ったインタビューが収録されたり、トリュフォーのインタビューや、松浦寿輝のゴダールについての文章があって、この人たちは、ずっとゴダールやヌーベル・バーグに関わってきているのだな、とその時思った。
 それ以外にも、サミュエル・フラーのことや、レオス・カラックスが南仏の貯水池に、ポンヌフのオープンセットを建設中だという記事などが出ていたりして、今読んでもなかなか面白い。
 あと、蓮實重彦の本の中では、『シネマの記憶装置』という本が、蓮實重彦の本の中では比較的読みやすく、僕が以前から考えていた事に近いことが書かれていたりして、僕は好きなのだけど、蓮實重彦の映画に関する本は沢山あって、最近では『映画狂人日記』シリーズや、あと『批評空間』という季刊の雑誌に、時評を今書かれている。

 それで、蓮實氏がパリを訪れた時に、ちょうど、建築家の安藤忠雄もパリに来ていたので、ルノーか何かの工場跡地に、今度、現代美術館ができるらしく、それを、安藤忠雄が設計する話とかを聞いたのだけど、ゴダールが『愛の世紀』の中で、全く同じ工場を撮影しているので、その工場は、もう取り壊されてスカスカになってしまったのだけれど、今となっては、貴重な映像かもしれないので、少し気を付けて見ておいて下さいと、映画の前に皆に教えてくれたり。
 あと、ゴダールは最近、物語をつくり始めているみたいで、タイトルは『愛の世紀(賛歌)』で、この映画のどこが愛についての映画なんだと、思ってしまうのだけど、登場人物の顔を、どのカットもきちんと正面からとらえていなくて、結局、ゴダールは、顔よりも、その人の気配が大切なんだ、ということではないか、というような、なかなか本質的な話をしておられた。
 
 昔からゴダールは、映画の中でも、顔についての会話が、時々でてくる。
 『パッション』では、映画の資金が底をついて、ハリウッドの映画会社に、資金を出してもらうとかいって、ゴタゴタしている時に、この映画は物語がないから、お金が出ない、という様な、二人の登場人物の会話のあと、テレビのモニターに写った女優の顔を、ビデオでスローにしたり、ストップしたりしながら、
「彼女の顔にも、物語はあるんだ」
「いったい、どこにあるんだ」
と、話している様な、シーンがあったりする。
 『映画史』のラストも、ゴダールの顔、自画像で締めくくられていた。
 ゴダールは、ある時期や状況によって、発言の内容が微妙に変化しているのだが、最近のインタビューでは、顔には、歴史も物語もない、そこにあるのは顔だけだ、と述べていたと思う。

 ゴダールは絵画については、ピカソまでと、やや古過ぎると、僕は思ってしまうのだが、そのことは、第二次世界大戦前後、二十世紀後半のニューヨーク-パリ間の問題にもつながると思うので、それも、少し置いておくとして。
 ただ、五十年代か、六十年代頃に、ゴダールが、現代の画家が、自らの肖像画を描くことを、放棄してしまった事に対して、やや批判的に書いていたのは、ある種の妥当性を含んでいる面もあると思う。
 現代美術、ドクメンタとかもそうだが(ドクメンタ11はまだよく知らないが)、建築的というか、物の芸術になり過ぎてしまっている部分があると、僕は近年思っている。
 現代建築とか、よりいいものができればいいと思うし、偉大な建築とかは本当に素晴しい。
 でも、一方で、建築とかの議論は、建物が出来上がるところで、終っていて、下手をすれば、いい建築や空間、物があれば、いい暮らしができると、錯覚してしまう部分もある。
 実のところ、住む場所や仕事場の環境とか、関係のない時には、関係ないものだと、僕は昔から思っている。もちろん、よりいい環境に住めて、素晴しい建築とかが、増える方がいいと思うが。

 ヴェンダースはかつて、「映画は物の芸術である、と同時に、人間の芸術でもある」と語っていたが、セザンヌやゴッホ、ピカソくらいまでは、自画像や人物を描いていたりして、映画と同じ様な事が、云えると思う。
 小説なんかも、登場人物が出てくるので、その点では同じだと思う。
 ただ、映画がだけが、ゴダールが語っていた様な、一人の泣きわめく女や、一人の物乞いをする乞食、とある殺戮場面といった、生のままの絵画的な映像、宣伝文句やピクチャーではない映像を、提示できるのだと思う。

 自画像という事に関して、例えば、自画像というと、僕はヴァン・ゴッホの自画像とかを思い浮かべてしまうのだけど、自画像を描くには、それなりに、時間がかかる。
 印象派の様な絵でも、一つのアングルから、自分の顔を描いてゆくのだけど、あれは、顔だけを描いているのだろうか。
 やはり、顔だけではなく、蓮實氏の語っていた様な人の気配、ヴァン・ゴッホなら、気迫の様なものを、描き込んでいるのだと思う。
 東京では、ゴールデン・ウイークから、渋谷のユーロ・スペースでも「FOR EVER GODARD」と題して、ゴダールの映画の連続上映が行われていて、『ウイークエンド』が終り、今は『フォーエバー・モーツアルト』で、おそらく八月くらいから、『JLG/JLG(自画像)』が上映されると思う。日本未公開作品が多いので、僕はぜひ映画館で見ておこうと思っている。(つづく)7/20

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