『愛の世紀/Eloge de l'amore』をめぐって 3

 映画が始まって、少しの間は、左側の通路のところに鞄とかをしいて、座ってみていたのだけど、前の客がよく首を動かすので、こちらも、そのたびに、首を動かしたりしなければ見れなかったのと、後ろをふりかえると、すぐ後ろにいた人は立っていて、別に自分が立ち上がっても、後ろの人には影響はない感じだったので、僕も立ちあがって見ることにした。
 映画館で、立ち見の回に入ったのは、これまで何度かあるが、本当に立ったまま見たというのは、僕の記憶にはない。
 ずいぶんと昔、子供の頃、名古屋の映画館で、チャップリンの『サーカス』と『ダンボ』の二本立てを、すごく混んだ映画館で見たのを覚えているが、その時も、たぶん前の方にしゃがんだりして、見ていたのではないだろうか。
 ダンボというのは、ディズニーのキャラクターで、東京ディズニーランドとかの宣伝では、最近見かけない様な気がするが、耳のすごく大きな象で、それで空を飛んだりする。

 それで、結局、九十分近くの間、壁にもたれたりしながら、ずっと立って見てしまったのだが、床に座って見るよりも、むしろ、スクリーンの位置がちょうどいい高さにきて、ずっと快適に、映画を見続けることができた。
 最初は、モノクロの映像から始まったのだが、少し硬質な感じのゴダールの白黒映像は、まず、それだけで、スクリーンで見ると、本当に美しい。それは、ありそうで、最近の映画では、なかなか、もう見ることが少なくなったクオリティーの、フィルム映像ではないだろうか。
 美術館で、大きく引き伸ばした写真を、立ったままで、ずうっと見ていくような感じがある。美術館では、一時間や二時間立ったまま絵や写真を見るというのは、僕にとっては、普通のことだし、足は日頃から、もう何年も、自転車やステアマスター、レッグプレスなどで鍛えている。

 『愛の世紀』は、前半の現在をモノクロのフィルムで、後半の過去の物語は、カラーのデジタルカメラで撮影された、今までにない映画だが、僕はその違いを、思ったより感じなかった。
 デジタルとフィルムの違いは、油絵とアクリル、あるいは、水彩画との違いにもたとえる事ができると思うが、ピカソがどの画材を使おうとも、それが、ピカソの絵になる様に、やはりゴダール監督の映像になっていたと思う。あと『ヌーベルヴァーグ』の撮影助手や、『新ドイツ零年』、『For Ever Mozart』でも撮影を行った、クリストフ・ポロックとの共同作業によるところが、大きいと思う。

 ちょうど、同じ時期に、僕はイメージフォーラム・フェスティバルでも、デジタルカメラによる短編映像を数本見たけど、おそらく、ゴダールの半分くらいの年齢の、若い世代のデジタル映像は、残念ながら、ゴダールを見たあとだと、お世辞にも、美しいとはいえない感じがしてしまった。
 よかったのは、パンフレットに、コダックの八ミリフィルムの夜間用のフィルムが、再発売されたことが載っていたことだ。
 ローリー・アンダーソンは以前、ファシビンダーの映画を例に出して、八ミリでもきちんとした映画はつくれる、と語っていたけど、僕もそれはそう思う。
 ディレク・ジャーマンも、スーパー8をビデオで再撮影したのをコマ撮りして、それを三十五ミリにブロー・アップしたりしていたけど、それより後の、ビデオですべて撮影した作品よりは、映像的には優れている感じがする。

 それはともかく、ゴダールの場合は、『映画史』では、フィルムの古典映画を編集するのに、デジタルビデオの編集機を駆使していたし、今回の『愛の世紀』でも、デジタルカメラで撮影された映像としては、今最も美しい映像ではないのか、と思わせる、新鮮で、みずみずしい映像をつくり出していて、そうしたことには、本当に感嘆させられてしまう。

 ゴダールは、映画だけではなく、以前から、新しい技術の在り方について、積極的に思考していて、八十八年のカンヌのインタビューでも「ブラジルに行こうが、ニューヨークに行こうが、ニュース番組はどこでも同じことです。CBSであろうが、NBCであろうが大差ない。本当は違ったやり方があるべきなのです。また違ったものであるべきだという思考すらない」というふうに語っていて「カナル・プリュス」局に、宗教的な儀式や、サッカーのゲームをより近くから見るような番組を提案したりしている。

 そうした、ゴダールの新しい技術や、その形式の追求、物事の違った見方にこだわる事の中には、資本主義の市場における、便利さの追求、新鮮さや、新商品の開発という視点、あるいは、芸術家の追求すべき独創性以外に、ゴダールが長年扱ってきた、主題のいくつかとも、関係しているのではないだろうか。
 例えば、『新ドイツ零年』では、アウシュヴィッツの事柄と重なって、フレームの外から「ドイツ人の情熱は普通だが、理性は異常だ」という声が入ったりする。
 それは、人間の一時的な、感情的、衝動的な誤りの恐ろしさより、硬直した理性による誤りの方が、より悲惨な結果を招く事を物語っていて、そして、それはファシズムや全体主義、第二次世界大戦、それをめぐる思考からきているのかもしれない。
 もちろん、それは、ドイツ人に限ったことではなく、また、そのことを踏まえてなかったりすると、二十世紀の芸術の多くを、全く理解できないのではないだろうか。
 あと、現代美術などもそうだが、ゴダールの映画は、簡単には見通せない要素を、常に含んでいて、ゴダールの意図とは関係なく、結果的に、他者性を映画として、提示している部分もあるのかもしれない。
 つまり、異物排除でもなく、同じ価値観を共有して、完全に理解するのを指向するのでもなく、他者のまますれ違ってゆくような時間と空間があって、そこには、コンテンポラリーな何かを、僕は感じることがある。あと、ヨーロッパ的な時間と空間を。

 現代をモノクロ、過去をカラーとした事に関しては、普通の、特に一昔前の、ニュース映画やテレビニュースの文法では、過去が白黒になっているので、『愛の世紀』では、それが逆になっている。
 最近のインタビューでは、フォークナーの「過去は死んではいない。過ぎ去ってもいない」という言葉を引用して、過去が現在と同じくらい重要であること。また、自分が青春時代を過ごしたパリが変わり果ててしまった事や、色彩が思い出となった時、ある種のショックを受けるようなものにしたかった、とも語っていた。
 また、パンフレットでは、『愛の世紀』の制作の段階で、自分が映画に回答を求めていたこと、また、自分自身が、今度は映画への回答をしなければならなかったことなどを、ゴダール自身は語っていたが、このことを含めて、何か一つ、『愛の世紀』と、他の映画を比べて語るとしたら、僕ならやはり、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』だと思う。
 ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』は、天使が画面に現われている時、また天使の視点で撮られている映像は、モノクロになっていて、そうでない時は、カラーになっている映画だ。
 モノクロから、カラーへの移行ということに関しては、とても効果的に、美しくつくられている映画だと思うが、現代では「事物がそれ自体で足り得る」ことがなく、映画監督がカメラの位置に身を置いてしまうこと。カメラが独立している必要があることなどを、ゴダールは語っていたが。
 つまり、『愛の世紀』では、ゴダール自身ではなく、現代では「映画こそ天使なのかもしれない」とも、解釈できないだろうか。さしずめ、主人公のエドガーは、堕天使というところだろうか。
 映画の最初でも、僕は気になっていたが、今回シナリオがパンフレットに採録されていて、読んでみたら、 
 「オープニング。天使のレリーフの短いショットに続いて、モノクロ画像に白の文字のオープニング・クレジットが始まる。」
 と、書かれてあった。

 「映画こそ天使かもしれない」と書くと、普通の人は、少し神秘主義的、ロマンティック過ぎると思うかもしれないけど、ドローイングや絵を描く時よりも、むしろ、映画や写真は、作者の意識に関係なく、対象をそのまま記録するから、偶然性を多く含んでいて、それが写真の特性でもある。
 ダダイストとかは、糸を空中から落としたりして、地面に落ちた糸の線を描き写したりしていて、ある時から、写真を多くとっていたけど、それもやはり、偶然性を追求していたからだという説もあって、マン・レイなんかも、そうかもしれない。
 実際、写真や映像作品を、多く撮影していると、自分でも思ってもみなかった物が写っていて、心霊写真ということではなくても、それは時として、とても神秘的に、奇跡的に思えてくることはままある。
   
 このサイトでも「PHOTO ALBUM」のところに、NYと日本の写真が載せてあって、そのいくつかは、カラーで、いくつかをモノクロにしてあって、それは『愛の世紀』とは関係なく、全く偶然そういうふうになったのだが、その事について少し述べておくと、写真はとりあえず、まず、一眼レフのフィルムカメラで、すべて撮影したものだ。
 それをスキャンしたのだけど、今はPCの画面上で、モニターを見ながら、カラーをモノクロにしたり、コントラストを調整したり、階調を変えたり自由にできて、いくつかは、意図的にカラー写真をモノクロに変えて載せてある。
 でも、モノクロのフィルムで、最初から撮影したのもあって、写真だと一巻モノクロのフィルムを使うと、撮り終えるまで、すべてモノクロなので、特に意図的にそうしたのではなく、そうなっているのもある。 
 ニューヨークの写真で、少しチーズとワイン色みたいになっているのがそうで、それは、別に着色したのではなく、ある時、モノクロのフィルムを使って、近くの写真を撮ろうと思いたって、ブルックリンの写真屋に行って、モノクロのフィルムを買おうとしたら、店員の人が、どうゆうモノクロがいいのか聞いていたので、特に決めていないといったら、少し時間がたつと、ワイン色になるフィルムがあるよ、とすすめてくれたので、そのフィルムを買って、撮った写真がいくつかある。
 もしかすると、フィルムではなく印画紙がそういうモノクロだったのかもしれないけど、一人で旅をしたりして行くと、ニューヨークの人もなかなか親切だ。

 『愛の世紀』をめぐっては、現在進行形の問題や、アメリカ合衆国についてなど、長くなるし、ゴダールの映画についてもそうなので、とりあえず、今回はこのあたりにしておこうと思う。

 東京では、シネ・アミューズでも『パッション』が、レイトショーで上映されていて、次回は『ゴダールのマリア』が予定されているみたいだし、十月からは『恋人のいる時間』がシネセゾン渋谷で公開予定とあるので、ほとんど今、ゴダール映画祭が行われているみたいだ。
 でも、実は昨年も『カラビニエ』を僕は見たし、新文芸座やテアトル銀座、キネカ大森でもゴダールの特集をやっていたので、情報誌をこまめにチェックしていると、東京では、ゴダールの映画を、映画館で見る機会はあると思う。
 『愛の世紀』の日本公開は、手持ちの資料では、札幌、東京、名古屋、大阪、神戸、福岡とあるが、それ以外の都市は、映画に関しては、やや地方都市だという感じがする。
 でも、今はビデオやDVDがあるので、それなら全国どこからでも、取りよせることはできると思う。少しお金がかかるかもしれないけど、DVDのデッキも二万円前後と、それほど高くなくなっているようだし、日本語以外の字幕があるので、語学の学習には、とても便利そうだし。(8/11)



ゴダールのDVD:『映画史』(紀伊国屋書店)
        『新ドイツ零年』(紀伊国屋書店)
        『ベトナムから遠く離れて』(日本コロンビア)

* 『映画史』以外は、他の発売元でビデオもあり

あと、『ゴダール全評論・全発言』(筑摩書房)という5000円以上もする、分厚い本が二冊あって、今度、パート3も出版されるとのこと。  



MENU