武蔵野


 暗いバーント・アンバーに、藍色が少しづつまじっている。
 そのすぐ隣は白っぽく乾いた、薄い紫色の入った灰色の石の上に、少し黄色が重なって見える。
 石の階段に腰掛けて、知美は一センチ、一センチのスクエアーのフレームごしに、土と石の境目をじっと見ている。フレームは白の厚紙をL字形に切ったのを二つ用意して、それをクリップでとめて作ったもので、とても簡単に作れるけれど、龍介が使っていて便利そうだったので、知美も使うことにした。龍介はチャーチルとゆう先生から教わったそうだ。それを使えば、一センチから十センチの様々な形と、大きさの四角のフレームを自由に作れて、構図を決めたりする時や、何かを集中して見るのにとても便利なのだ。
 土や石でも、一箇所だけをじっと見ていると、始めはただの焦げ茶色や、灰色に見えた色の中に、色々な色が重なっていって、グラデーションを作ったり、粒子のように混じりあっているのが見えてくる。それを、知美はすばやく、三十六色のオイルパステルの中から色を選んで、スケッチブックに描きつけている。点描のように色をのせたり、指でこすりつけたりして、なるべく自分の見た印象に近い色を、紙のうえに感覚的に作りだす。

 秋が深まってきて、落ち葉が地面にだんだん積もってきている。知美の座っている石の階段も、土もしっとりとした感じでとても心地がいい。昼間なので、井の頭公園も人がまばらで、静かなたたずまいを見せている。
 知美はテキスタイルの色の組み合わせを作りだしているところだ。ベッドカバー、シーツ、ハンカチ、タオルなどを作っている、繊維メーカーとの契約で、シーズンごとに引き受けている仕事だ。
 彼女は学生時代の友人のネットワークなどで、これまで会社案内、ポスター、名刺、CDのジャケット、インダストリアル関係など様々なデザインの仕事をこなしてきている。
 しかし、今のところ継続的に安定した収入になっているのは、シーズンごとに行なう、テキスタイルの仕事と、新宿の広告代理店と、ゆり子の紹介の外資系のデザイン事務所との仕事だ。テキスタイルの仕事は、その中でも、自由にデザインを作ることができるので、知美の好きな仕事だ。

 色の組み合わせを決める時、写真やコンピューターの画面上で決めていく方法をとるより、知美はなるべく自然の素材を見ながら、そこからピックアップするようにしている。その方がやっていて楽しいし、自然な素材の中には色のナチュラル・ミステリーがある、と知美は思っている。

 鮮やかな紅色から、少しづつ黄色になって、茶色に変わっている落ち葉の表面、黄緑の葉脈。その後、遠くの方の景色でポイントを探してみる。少し紅葉が始まった森の、まだ緑色がたくさん残っているところと両方に、太陽の光線が斜めからさしていて、全体が山吹色のフィルターを通して見たように見える。オイルパステルの他に、カラーペンシルも使ってなんとかその感じを出してみる。

 しばらく座ったままで、厚紙で作ったフレームを使ったりしながら、色々なポイントで色をいくつかピックアップしたあと、少し歩いてみることにする。
 動いている湖の水の色を、ピックアップしてみようと思う。水の色は茶色と濃い緑を混ぜた暗い色をしている。光が反射して、やわらかく動いている。でも、ちょっとむずかしい。
 またしばらく歩いて、木の幹の色をピックアップする。ほとんど黒に近い焦げ茶色の木の肌に、少し茶色がかった、銀色のストライプがいくつも入っている。ストライプは一番明るいところから、焦げ茶色の幹にグラデーションを作って溶け込んでいるから、少し金属的な感じがする。ジバンシーやシャネルが使いそうなシックな色合いだ。
 木の幹にはソロとゆう名札が紐でつけてある。
 ほかの木にも名札がついていないか気を付けてみる。
 坂を少し登ったところで、また名札がつけられている木をいくつか発見した。名札はまばらに、つけられていて、ちょっと気紛れな感じもする。ここでは英語の訳もついている。
 ヒノキ/Japanese Crypress、イヌシデ/Caprinusu Tschonoskii、サワラ/Sawara Crypress、アカマツ/Japanese Red Pine、エゴノキ/Styrax Jponical…、こうゆうところは、日本人も外国の人に親切なのだな。それとも、正確な学術名を記してあるのだろうか。

 入場料を払って、今日は自然文化園の中にも入って、魚や動物の色もピックアップすることにする。とにかく知美は自然の題材を探すのには、歩いてすぐ行ける、とてもいいところに住んでいる。

 まず、水生物館の方から 、入ることにする。こじんまりしていて、規模ほそれほど大きくない。入り口のところに、『水生物館と水族館の違い…』が書かれていて、主に魚を中心とした展示をしている水族館と違って、淡水魚の他に両生類や昆虫・植物を含めた広い意味での水生物を展示しています…、といった解説が書かれている。
 ヤマメ、ホゼ、イワナ、イトウ、ミナタナゴ、クサガメ、オオサンショウウオなどなど。きちんと見ようとするとたくさんの水生物が、水槽のなかで泳いだりしている。たまに、カワセミが一羽だけ、枝にとまっていたりする。
 今度は色のピックアップだけでなく、簡単なラフスケッチも、色鉛筆でいくつかしておく。

 十センチから二十センチほどの、ちいさなアユが、数十匹水槽の中で泳いでいる。ゆっくりと水の中に漂っているアユが、クックッっと体をくねらせたかと思うと、流線型の軌跡を絵がいて、また減速する。その動きを数十匹のアユが交わりながら、繰り返していて、とても気持ちのいいリズムと、アンサンブルを作っている。
 ピカソのなにげなく描かれているけど美しい線。レオナルド・ダビンチの科学に関するスケッチの線。アーシェル・ゴーキーの線。北斎の毛筆による、描き直しのない線。
 色鉛筆の中から、一本だけ青を取り出して
スケッチブックの上に、アユの軌跡のアンサンブルを何枚かスケッチしておく。

 もうかなりの量の色の組み合わせが、スケッチブックにできたけど、水生物館からそとに出て、どうせだから野鳥のいるところとかも、一通り見ることにする。
 野鳥のおりに近づいていった時、リュックを背負った三人組が、こちらの方を振り向いた。
 何かなっと思ったら、鳥の鳴き声を録音していたのだ。地面に砂利がたくさん敷いてあって、普通に歩いていたのに音を立ててしまったのかもしれない。
 一人は真面目できちんとしていそうな白人の青年で、グリーンのリュックにジーンズを履いている。あとの二人はおそらく日本人だろう。スキー帽を被ったすんぐりとした男の子と、モスグリーンのズボンに質の良さそうな黒のハーフジャケットに、赤いマフラーをした女の子の三人組。
 知美も、鳥の鳴き声を聴いてみようと、おりに近づくと、また、砂利で音を立ててしまったみたいで、スキー帽の男の子はぷいっとした感じで、別のおりの方に行ってしまった。
 カリガネとゆう名前の鳥で、ゴロゴロゴロ…、ゴロゴロゴロ…と、木でできたぜんまいのような音を立てている。
 残った白人の青年と女の子は、マイクをカリガネの方に向けながら、なにか可笑しそうにクスクスと口を閉じたままで笑っている。
 手にはウォークマンのような、とてもコンパクトな録音機材を持っている。知美も今回の撮影で、現実音の録音に多用しているDATと似たようなものだろう。今は音の再生技術ばかりではなく、録音もとても高性能でコンパクトなものが市販されているのだ。白人の青年の手にしているマイクには、風邪避けがついていて、より本格的だ。

 知美も、野鳥の色だけでなく、声をよく聴いてみることにした。
 カモ、オシドリ、ツル、ハクチョウなどがいて、カカカカカ…、ピュ、ピュ、ピュ…、キューン、キューン…、アアアアア…、アアアアアア…、とゆう感じで、当り前だけど、それぞれ違う鳴き声をしている。

 さっきの三人組は、それぞれ分かれて、鳥の鳴き声を録音している。バードウォチャーならぬ、バードリスナーと言った感じかな。それにしても、おしゃれな人達だな。おしゃれとゆうか、バックパッカーとか、NGOって感じだな。
 鳥の鳴き声を録音している目的はいったい何だろう。鳥の鳴き声以外にも、川や草村とかにも、マイクを向けたりしている。手を上のほうに向けたりもしている。風の音を録音しているのだろうか。
 音楽をやっている人達だろうか。それとも、ゆり子の様なラジオ局の人間だろうか。それとも、ただ部屋に帰って音楽を聴く変わりに、鳥の鳴き声を聴いていたりする人達だろうか。
 スキー帽の男の子は目つきが、なんか日本人にしては鋭いような気がする。
 女の子の方は、髪を後ろで結んで、すっきりとした顔だちだけれど、赤いマフラーとかのコーディネイトの仕方が、ちょっと日本人ぽくない。
 もしかすると、日本人以外の東洋人で、日本に観光に訪れているのかもしれない。それとも、留学していて、一時的に、友達と日本に帰ってきているところなのかもしれない。
 帰り際に、三人がまた合流していたので、知美は何気なくそばを通り過ぎてみた。すると日本語で話をしていたので、やっぱり日本人だった。

 水生物館のある分園の門を一度出て、坂を少し登って車の通る、通りを渡って、動物がいる本園の方にも行く。
 ここは、ライオン、トラ、キリン、クマなど、動物園には目玉だと言える動物はことごとくいない。動物園ではなく、自然文化園なのだ。
 こじんまりしていて、サル、リス、ヤギ、ヒツジ、タヌキ、などの中小型の動物が主体だ。でも、アジアゾウがいる。中央には武蔵野の面影をとどめるために、タンチョウ、ヤクシカを放し飼いにしてある。奥には、本当に小さな遊園地、日本庭園、彫刻館などもある。

 あまり、のんびりとはしてられないので、ささっと、全部見てから帰ることにする。
 ダマワラビー。五十センチぐらいの小ぶりのカンガルー。昨年、キャラクターに使ったのだか、また、スケッチする。その隣は小さなキツネの様な耳を持ったフォネックス。エジプト、アラビアのイヌ科。
 さっきの三人組が、遅れて本園の方にも、姿を現わした。動物の鳴き声も、録音する気だな。園内には、子供づれ、学生の様な人達がまばらにいる。
 アナグマ、ハクビシンを通り過ぎながら見て、知美はアジアゾウのところに行った。

 象はいつになく、疲れ果てているように見えた。
 中原知美が初めてこの象に会ったのは、五年以上も前だが、初めて会った時はまだ元気だった。でも、この一九四七年生まれの、雌の象はもう、象にしてはだいぶ年なのだ。
 本園には、昨年から来ていなかったが、昨年はおりに入っていて、ちょっと覗いただけだったと思うので、よくわからなかった。
 象は他の動物より、やはり、いくぶん広いコンクリートのスペースにいて、知美のいる場所から十メートルくらい離れた、一番奥の石の壁の近くに、まるで、岩の様に立っていて、全く動こうとする気配がない。
 まるで、疲れ果てていて、何に対しても象は関心を失ってしまったかの様に見えた。

 しばらく見ていたけど、仕方がないので、その場所を離れようかと思ったけど、知美はドクトル博士だったか、どんな動物とも自由に話ができるとゆう博士のことを思い出して、何とか象と話をしてみよう、とその時、突然思い立った。
 でも、象だから、言葉、日本語はたぶん絶対通じないだろう。ここからでは手を叩いたりしても、象はこっちの方を見ていないし、聞こえにくいだろうし、自分の体の何倍もある象が、手を叩いたりしたぐらいでは、とても反応してくれない様な気がした。
 それで、知美は色々考えた後、自分がかつて見た、まだ象が元気だった頃に、歩きまわったり、餌を食べたりしていた頃の記憶、その映像や、いったいどうしてしまったの、とゆう象に対する思いや、元気を出して欲しいとゆう気持ちを、象に送ってみることにした。
 象とどうやったら、コミュニケートを取ることができるのか、知らないし、やった事はない。でも、何か方法があるのではないかとゆう気がして、知美はあきらめずに、頭の中で通じる方法を探る感じで、映像や、思いの塊の様なものを送り続けた。ただ、丸い鉄の柵に両手をおいて、遠くにいる象を見つめながら。

 象はゆっくりと、動き始めた。
 そして、一番奥から中ほどまで手前の方に歩いてきた時に、それを見た子供が知美のすぐ隣の、柵の近くに寄ってきた。
 象のいる、平らなコンクリートの広場と、知美のいる柵の間には、それ以上、象が観客の方にこれないように、小さな谷があって、コンクリートの端は少し高く段ができている。
 象はまず、寄ってきた子供の方に向かって、さっきまで岩の様に動かなかったのに、なんとコンクリートの段に片足をのっけて、勢いよく声をあげながら、鼻を高く上にあげて、ポーズを取ったのだ。
 それを見た、子供の親は、ここぞとばかりに、象と子供のいっしょにいる写真を取ろうと、必死でカメラを構えようとしている。
 その次に今度は、やはり知美の方に象はやってきて、鳴き声を上げたり、鼻から息を吹き出しながら、もうブンブン鼻を上下に動かしながら、知美の方に迫ってくる。
 知美は、象が元気になったのは嬉しかったけど、少し呆気にとられてしまった。鼻息がかかりそうなところまで、象の鼻は伸びてきたので、ちょっとあとずさりした。そして、しばらくは象に向き合っていた。でも、その先、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。象は相変わらず、鼻を上下に動かして、鼻から息を吹きだしたりしている。

 知美は向きを変えて、その場を立ち去ることにした。
 五十メートルくらい行った時、振り返ってみると、象は知美の方をじっと見ている。
 ベンチに座っていた人々は、知美と象のやりとりを見ていたのか、こいつはいったい何者だ、とゆう感じで知美の方を、ちらっと見て、また目をそらしてしまった。
 また、しばらくして振り返ると、象は向きを変えて、奥の方に帰って行くところだった。

 この経験を機に、知美の動物に対する考え方は少し変わってしまった。中原知美は、動物を飼って溺愛したりする方ではない。また、動物を擬人化して、人間社会のルールや習慣などを、自分達の分かる範囲内で、それを動物に押し付けて、動物の事を理解するのは嫌い、とゆうか間違っていると思っている。しかし、象の様な大型の動物には、気持ちや、思考に近いものはあるのではないのか、とゆう事だ。人間の様な言葉による思考はおそらくないだろうけど、何かそれとは異なるけど似たようなものだ。
 イルカやクジラは海の中で、地球の反対側にいても、超音波のようなものを使って、交信することができるとゆう。
 象もおそらくそれに近い、人間の五感とは全く異なるものを持っているはずだ。
 とにかく、人間の科学が、動物のすべてを解明しているなんて、とんでもない、と思ったのだった。
 
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