骨董屋


 福原龍介は、中央線の高円寺で降りて、もう十年近く会っていない、以前、映画のワークショップで仲の良かった友人の、森田を訪ねようとしていた。森田は二、三年前に、何年か勤めたCM制作会社を辞めて、その後、しばらく露店でアクセサリーなどを売っていたあと、なんと、今では高円寺に骨董屋の店を持っているらしい。ニューヨークにいる間もずっと連絡は途絶えたままだったのだが、人づてにその事を聞いて、一度店を見て、そのかつての友人に会ってみたくなった。何年も電話さえしていなかったが、電話をして、住所を聞いて、会う約束をした。同じ中央線沿線で、行こうと思いさえすれば行ける距離だ。
 
 いつ頃のことだったか、高円寺はエスニックタウンだ、とゆう雑誌の特集があって、その事が龍介の頭の中に少しあったので、色々な民族関係の小物屋でもあるのか、と少し想像していたが、駅前はなんて事はない普通の中央線沿線の街だった。でも、住むのには便利そうだ。特に何の感慨もない、といった表情で人々は通りを歩いている。
 少しにぎやかな、飲食街などを抜けると、店はばらに減っていき、住宅地がある街道沿いの道に出た。龍介はバイク便をやっていたので、始めての場所でも、住所の番地を聞いただけで、確実にその場所に到着する事ができる。
 バイク便で始めての場所に行く時は、走り始める前に、住所の番地とその場所の地図をすべて頭の中に叩き込んでおいてから、走り始めるのがとても重要だった。いくら車と車の間をすり抜けたりして速く走っても、途中で、バイクを止めて地図を見たり、道に迷ってしまっては、十分、二十分とすぐタイムロスが出てしまって速く走る意味がなくなるのだ。
 
 嫌なのは一方通行だった。一方通行は地図に出ていない。狭い道で二つ一方通行が重なったりすると、目的の場所に近づいていても、なかなか到着できずに大きく迂回しなければならなかったりする。バイク便では半分ほど得意先が決まっていて、得意先の近くの一方通行はライダー達の頭の中に入っている。でも、そこにも落し穴がある。龍介がライダーをやっていた頃は、神楽坂は午前と午後とで一方通行の向きが逆になっていた。足首を切断した龍介の同僚は、いつもの様に午後、神楽坂の途中にある得意先に行く為に、外堀通りから神楽坂に入ろうとした。そこに、九段下の日本武道館で行なわれるロックコンサートに間に合わないとゆうことで、一方通行を逆走してきた車に、オートバイの真横に突っ込まれて足首をなくしたのだった。

 地図を片手に龍介はもう、十五分以上歩いていた。どんどん店が減っていって住宅ばかりになってしまった。こんなに駅から遠いところに店を構えて、果たして客がくるのだろうか、それとも住所を聞き違えたのか、道に迷ってしまったのではないかと、少し不安になってきて、それでも歩き続けていると、店の看板が見えてきた。コンピューターの文字ではなく、手描きだが、昔ながらのプロが作った、きちんとしたロゴの看板だ。

 店の前には、古い箪笥などがいくつか並べられていて、その上の白黒のテレビには時代劇が写っていた。そう言えば、昔から森田はレトロとか、少し古い漫画などが好きだった。イメージ・ガリレオとゆう北海道の小さな映画館で、東京に来る前は活動していたのも思い出した。
 森田とよく会っていたのは、ある映画のワークショップに通っていた頃で、お互いまだ十代で、東京に出てきたばかりで、夜中の十二時過ぎてから、寝てた?とか言って電話が掛かってきたり、こちらから電話を掛けたりしてたわいもない話をしたりしていたのを覚えている。東京に出てきたばかりで、お互いさびしかったのだろう。また、将来に対する漠然とした不安のようなものをお互い持っていたのを覚えている。
 森田はそのワークショップのあと、その頃、ある美大に新しく映像学科が新設されたので、そこに通うことになった。その後しばらくは会っていたのだが、しだいに会わなくなっていった。

 店の中には古いものではあるのだが、すごく古くて貴重品とも言えない、ランプ、時計、おもちゃなどが並べられていた。

「なんとなく雰囲気はわかるんだけど、こうゆうものを何と呼べばいいの?骨董品なのはわかるんだけど…。」
「生活骨董。またの名をジャンク。」
「そうか…。」
「骨董にも色々あってね、それぞれ専門があるんだよ。おれのやっているのは、七十年代とかおれたちが子供の頃の、色のきれいな照明機具とか。」
 いくつか、確かに色の鮮やかなオレンジ、ブルー、グリーなどの有機的な形のガラスでできた傘のあるランプが天井から吊り下げられている。
「それにしても凄いと思うよ。こうして店を持ってしまうとゆうのは。」
 店は全体で八畳ぐらいだが、外にも品物を置く場所がある。赤テントか黒テントだったかよく知らないが、ある前衛劇団をやっていた人の事務所だった場所だそうだ。店の表には木でできたプレートに、店の名前の絵文字がきれいに飾られていた。寺山修治の『田園に死す』の映画の美術を担当した人が描いたそうだ。
「でも、どうしてこうなったの?いや、前から森田はこういった物とか好きだったのは知っているけど…。CMの会社はどうだった。」
「きつかったねー。」
「どういった種類のコマーシャルを作ってたの?」
「化粧品のCMとか。おもしろかったよ。いろいろな世界が見れたし。でも、結局コマーシャルは自分の作りたい物は作れないからね。何年かそこにはいたんだけど、このまま続けても、すぐ年を取ってしまうと思って。」
 森田は机の引き出しから、有名な情報誌の主催している、自主制作映画祭のパンフレットを出してきて見せてくれた。会社を辞めてから、一本自主制作の映画を作って応募して入選した時のものだ。
「龍介はどうしてたの?」
「いや、ニューヨークにずっと行ってたんだ、その話はしなかったっけ。」
「全然知らなかった。」
 龍介はニューヨークで制作した、主に絵画や版画の作品集を見せることにした。
 森田はいくつかの作品を見たが、ファインアートはよくわからない、と言ってあまり興味を示さなかった。
「ところでさ、誰か森田の知り合いで翻訳とかデザインの仕事をしてる人いないかな。」
「…いないね。」

「そうか。でも、二、三年で店を持ってしまうとゆうのは商才があるとゆうか、森田の親父さんは実業家とか、商売とかやってたっけ。」
「いや、全然関係ない。」
「ああそうだった、北海道で先生やってたんだよね。いま、御両親とかどうしてるのかな。」
「芸術家をやっています。」
「芸術家?」
「この前、何年かぶりに帰ったんだけど、そしたら、木を斧で削ったりして彫刻を作っていた…。」

「実はおれアート以外にも、ストーリーとかも作っていて、できれば、規模は小さくても映画も作っていきたいと思っているんだけど、森田はこの先、映画を撮影する予定とかはあるの?」
「いや、今は忙しくて。店があるから。」
「そうか…。でも、この店の雰囲気は落ち着くし、いい感じだね。そうだ、店全体が映画のセットみたいだね。」

「この店はおれの努力の賜だと思うんだ。」
 森田はその後、会社を辞めたあと、会社にいる頃から趣味で作っていたアクセサリーを、原宿の歩行者天国に行って売ってみたら、すごく売れて一日二万円ぐらいになったこと。その後、露天で店を出すようになってから、知り合いの紹介で、骨董の市場を教えてもらい、借金をして店を出すことにしたこと。軌道に乗るまでは忙しくて、倒れて死ぬかと思ったことなどを話してくれた。
 あと、自分には骨董の市場などで、いいものと、悪いもの、売れるものと、売れないものを見分ける才能がある、とゆうような事も言っていた。
 ほとんど奥さんと言ってもいい彼女がいて、二人で苦労して店を立ち上げたそうだ。
 美大のほうは、現場で早く仕事がしたかったので、中退して会社で働き始めたらしい。同期の友達の多くは、すでにCM制作会社やテレビのドラマなどで監督になっている。でも、テレビの連中は人間をなくしていると言っていた。どうして?と聞くと、あいつらは凄い金があってもすぐ使ってしまうからね、と言っていた。
 森田はどれぐらい今稼いでるの?と聞くと、丁度、店に客が一人入ってきたので、大きな声では言えないよ、と口ごもったあと、サラリーマンよりは稼いでいる、と言っていた。その店以外に、都内の何軒かの店に仕入れもしているそうだ。店番をしている時は暇そうに見えたが、店を開けている以外に色々仕事があって毎日忙しいらしい。

 しばらく、お互いぼんやりとした雰囲気で色々話をしたあと、龍介が帰る頃には、そとは雨が降り出していた。森田は奥の方から、明るい青い色の傘を出してきて、また来ていいかな?と聞くと、いいよ、と言ってくれた。
 森田がこの先、あと十年ぐらいたって、何をやっているのかはわからない。でも、いずれにしろ、店を持ったのは偉いことだ、と関心しながら、龍介は雨の中を一人歩いて帰っていったのだった。
 
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