INTERMISSION
 
 まず始めに、この物語は僕自身の体験や現実や想像力を用いた、フィクションだとゆうことをもう一度、確認しておこうと思う。僕と龍介は、ニューヨークにいたことがある、とゆうところとか、似たところが多くあるけど、ここでは誇張や削除、想像などを加えて作られた、物語の登場人物だとゆうこと。
 また、知美やゆり子の様な女性も、今、僕の周りにはいない。東京にいるかもしれない女性、あるいは自分自身のある部分の投影や、理想かもしれないし、物語の必然から生まれてきたのかもしれない。とにかく物語の登場人物だ。

 あと、この物語全体は、基本的に長編小説だけど、それぞれの章をある程度、短編としても読めると思ったので今回の様に掲載する事に決めた。また、それぞれの章は、それぞれのプラトー(高原・台地)を持ち、途中は前後しても読める、と書くとドゥルーズ=ガダリの『千のプラトー』みたいだけど、別の言葉を使えば、音楽のアルバムの構成に例えてもいいと思う。
 また、これはパーソナルなサイトだし、あまり形式ばらずにやりたいとゆうのもある。本とウエップは違うメディアだし。

 文学は読む人の想像力によって、最終的に作品が完成されるので、どのように読んでもらっても構わないし、自由に読んでもらいたいと思うのだが、僕がこの作品を書いる間に、あるいは書いた後で思ったことを、今回は少し述べておこうと思う。
 とゆうのは、まず、中央線の章とディスカッション1の章のつなぎの部分は、そのままモダン(近代)を超えて、ポストモダンに移る一つのモデルとして、または連続した一つの映像、イマージュの様にも読むことができるからだ。アートだけではなく、社会哲学においても。

 中原知美が中央線で吉祥寺を過ぎたあと、両方の電車の窓を同時に見ることができるのを発見して、リュックサックからカメラを取り出す。更に両側に続く、金属でできた、銀色のフレームを発見する。芸術に詳しい人が読めば気が付くと思うが、金属の銀色のフレームはドナルド・ジャッドだ。マネや印象派から始まったモダンアートの最終地点。この物語は言葉による現代美術の様に読むこともできる。
 
 芸術のための芸術。観る者を無視していると言われたジャッドの作品。彼は六十年代、七十年代の、銀色の箱の作品が有名だが、金属の銀色のフレームだけの作品も多く残している。その作品は、平面化、客観的な美の追求の結果、最後に絵の枠、フレームだけが残ったこと以外に、何物も表わしていない。その意味では、コンセプチャリズム以降はポストモダンだ。

 マルセル・デュシャンは便器を美術館の中に持ってきて、これは便器ではない、と言ったが、ここでは、電車の窓枠がジャットだ。美術館の中では、無機的で、人間味がなく、孤立している様に見えたジャッドの作品も、こうして見ると、客観的とゆうよりは、かなり普遍的な感じもしてきた。世界の電車の窓枠はどうだろうか?

 両側に続く、金属の銀色のフレーム。日本建築の垂直な構造にも似ているが、雄弁は銀だとか、色々なものに例えて考えることができると思う。
 両側に続く規制。テレビ映像。右と左。正面に見えるドア。ベルリンの壁。日本にも目に見えない壁が色々ある様な気がする。国境線。言葉の壁。言葉の壁を超えるのは、サウンドとイメージとアクションだ。また、書くことも一つのアクションだと思う。(英語ではこんなふうに話せない。)

 中央線の章(シーン)の最後、知美がカメラのシャッターを切った後、次の章(シーン)の冒頭では、映写機が音を立てて回っていて、映画の機能的な定義が一つ書かれている。
 シャッターを切る音。パーフォレーションに歯車が食い込む音と映像。カメラのモータードライブの音。巻上げられるフィルム。映写機を流れる16ミリフィルム。映写機のモーターの音。回転するリールの映像など。または、一秒24コマで撮影されるカメラの音と映像。壁に波動の様に反射している光=映像。これらの音と映像は、すべて章と章の間にあって、詳しく書かれていない。章と章、シーンとシーンは実は連続していて、これがシィネマティック・モンタージュだ。
 映画化してみる、とゆうことも考えられるが、とりあえず、そのまま読んでも、あるいはそのまま撮影しても、いくらかの映像と音は触発されるのではないか。
 両側に続くフレーム、歯車がなく、フレームの外を流れる風景。流れ去った時間。言葉、理論に縛られて、静止したモダニズム。芸術の終り。歴史の終り。窓のフレームと相対的に逆の方向に流れている風景は、静止した絵画、モダニズムと相対的に、動きのある、現実を撮影する映画かもしれない。
 または、物語全体は、電車の中の現実も、部屋の中の映像も、同じ文字で書かれていて、虚構の中の虚構の映像の方が、フレームや規制のない現実を隠喩的に表わしているとも思えてくる。
 目を閉じた時、長いシャッターの間にできる、黒味。その間に浮かぶ映像。両側に続くフレーム。スローシャッターによって、減速して静止する、両側に流れる風景。歯車が食い込み反転する、風景と時間。シャッターが開くと同時に、一秒24コマのスピードで動きだす映像、風景。
 または、ゴダールの『気狂いピエロ』にもあった、『地獄の季節』のランボーの詩の一節、「見つけた。何を? 永遠。 太陽に溶け込む 海。」ここでは、それは「両側に流れる 空。」かもしれない。この物語の主人公の中原知美は郊外に向かう、高架線上の電車の中で、モダンニズムの壁を超える。一点透視突破のブレークスルー。実存主義。構造主義。ポスト構造主義。千のプラトー。プラトー知美。二元論を超えて。ハング・オン。デリダ。電車の中における『構造と力』。『2001年宇宙の旅』。


 五十年代の抽象絵画のあと、六十年代にグリンバーグなどの理論も加わって、ジャッドで還元プロセスも行き着き、七十年代には、早くも、芸術は終ったと言われた。歴史のある芸術が、抽象絵画のあと、二、三十年で終ったと言われたのだ。当然、その後も、芸術家は作品を作り続ける。コンセプチュアリズム、ニューペインティング、トランスアバンギャルド、メディアアート、パフォーマンス、インスタレーションなど、現代美術はかなり複雑だ。そして、それらは、複数のメディアを用いて作られている、総合的な芸術だとゆう点で、映画とよく似ている。映画は始めからポストモダンのポテンシャルを持っていたと言える。
 つまり、何が言いたいかとゆうと、第二次世界大戦後、芸術の都はパリから、ニューヨークに移ったとゆう人がいるが、それは、違うとゆうことだ。
 確かに、MoMAにあるコレクションはすばらしい。ポロックやロスコなども好きだし、絵画だけを観ると、一見、キュービズムの後は抽象絵画の様に思える。しかし、それは、六十年代以降の、絵画、文学、映画などをメディアで明確に分けるモダニズムの考え方だけによるものではないか。
 パリで起こった、芸術運動は、印象派、キュービズム、ダダイズム、シュールリアリズムなどの次は、アートの本だけを見ていると、何もないように思える。しかし、僕の知る限り、第二次大戦後、パリで起こった最も大きな芸術運動はヌーベルバーグだ。一世紀前なら、絵や文学、演劇をやっていた様な人間が、映画を作っただけだ。

 また、ダダやシュールリアリズムの芸術家を、幻想やイルージョンだけを作っていたと理解している人がいるが、いくらかのアバンギャルドは社会運動家だった。また、彼等の超現実主義の目的は、人間の無意識だけではなく、社会無意識にもあった。僕自身は、もっと、ジャーナリスティックで、社会科学的なアプローチを取るのだが。
 文学、絵画、演劇、音楽、映画など、その芸術運動内で様々な作品が作られて、メディアよりも内容、コンセプトの方が重要だったのだ。油絵の具やフィルム、言葉でもそうだが、物質的なものだし。
 ニューヨークでは、マチューナス、パイク、オノ・ヨーコ、ケージ、ボイスなどのフルクサスのメンバーが、その流れを継承していたようだ。イタリアのトランスアバンギャルドも少しそうだ。
 
 では、何が六十年代以降のモダニズムの前と後では違うのだろうか?また、ポストモダニズムとゆう言葉を安易に使えば、今度はポストポストモダニズムとゆう事になり、少し馬鹿げた事になる。
 僕自身の考えでは、芸術におけるモダニズムの功績はそれぞれのメディアの特性を良く考えたとゆう事につきると思う。またそれは、形式的な理論的なアプローチもいいが、単に比較してみること、実際に制作してみることによっても知る事ができると思う。現代美術の作家が今の様な制作を行なっているのも、それが理由の一つだと言えるのではないか。

 アメリカの美術批評家のマイケル・フリードは、六十年代、芸術は見た瞬間に、それだ、と確信されるものではなければいけない。演劇や映画の様に時間がかかる様なものは芸術ではないと。芸術とは永遠に突き抜ける一瞬において、体験されなければいけないとゆう様なことを言っていた。また、メディア・スペシフィック(特定)とゆう様なことも。
 しかし、87年のディスカッションでは、ローリー・アンダーソンのパフォーマンスなどについては、もっとメディアとゆう概念を緩めてもいい様なことを言っていた。
 
 映画については、おそらく、カイエ・デュ・シネマなどのグループは映画の優位性を六十年代頃は言っていて、議論が行なわれていたと推測する。ゴダールの『気狂いピエロ』を観ていて感じるのは演劇性、そして、永遠に突き抜ける一瞬は最後にきていることだ。『映 画 史』では、より総合芸術としての映画になっているのがわかる。しかし、メディア・スペシフィックとゆう点では、ビデオなどを用いたインスタレーションやパフォーマンスなどより、最終的にはフィルムに撮られているのでそうだと言える。だだ、ゴダールなどヌーベル・バーグ全体は美術と同時に文学、ドキュメンタリー、音楽との関係が重要だとゆうのは言うまでもないが。
 
 あと、実験映画、アバンギャルド・フィルムと呼ばれる映画では、トニー・コンラッドなどは、透明フィルムと黒味のフィルムだけで作った、光と影だけの短編映画を作ったり、フレーム数の構造だけに注目したり、フィルムの物質性に注目して科学変化を加えたり、特殊な映写を行なったりと六十年代頃は盛んにそういった事が行われていて、これもアートと平行していたと思う。
 ただ、特殊効果は、コンピューターなどを用いた技術的なものが今はあるし、技術だけではすぐに飽きてしまう。やはり、何をどう撮るか、とゆう事が大切だろう。画家が絵を描くように、詩人が詩を書く様に作られた、短編映画は商業的には流通していないが、数多く作られていて、日本では、イメージフォーラム、NTT インターコミュニケーションセンター、NYのアンソロジーフィルムアーカイブ、映像博物館、MoMA、ホイットニー、パリのポンピドーなどの美術館で、たまに上映されていて観ることができる。ただ、それらの中には、あまりにも個人的で、社会科学的な感性を無視したり、物語を単に作れないだけではないか、と思う作品もある。
 
 欧米の話ばかりになってしまったが、北斎も、絵や文章、漫画など色々、自由に作品を作っていたとゆう点では似ている。日本は江戸時代までは、はっきりと、日本の文化、東洋の文化だと、誰でもわかるのだが、明治以降の西洋化、戦後のアメリカのポップカルチャーの影響などのあと、八十年代はもっと情報が入ってきて、少しポストモダンになりかけた様だった。東京の様な都会と地方では違いがあるし、現在はかなり複雑だ。それは、この本遍の物語を通して語っていく事でもある。文化的な視点から見た、都市の物語だ。
 美術に関しては、いくらか、欧米の近代、現代と対応しながら、活動している作家がいるのは知っているが、保守的な美術家のことは、僕はあまり知らない。また、日本の文化全体や時代性と関係なく、何かを表現するとゆうより、美術品を作って、閉じた美術の世界を作っているようにも見える。水墨画や日本画など、伝統的なものや、洗練された作品を鑑賞するのはいいのだが。ただ、一部の美術家や文学者は今、反動的で、周回遅れの渋滞を作っているようで、不快だ。これは、日本の文化全体がそうで、芸術に限ったことではない。
 僕は自分の作品を作ればいいと思っているし、未来は個々の芸術家が作品を作ることで、また、一人、一人が生きるものだと思っているが、グローバライゼーションが進む中、多様な文化が混ざりあったポストモダンより、今はトランスナショナル、地方の特徴がなくなるので、トランスリージョナルな文化とはどういったものか、考えるべきではないか。地方的で、なお国際的とゆうことだが、ここでも、少し二元論を超える気持ちが必要かもしれない。

 昨年、この物語を作り始めた時、頭の中にあったことの一つは、ブルックリンのフルトンモールとメトロテックの間に掲げてあった、「Discover Our Neiborhood」とゆう言葉だ。それは、このサイトに写真がある。Art Exhibition 1999→日本語→企画/プロジェクト→from Indian fabric→40写真-No.30。三年以上前の作品だが、今回の作品は最も、プロジェクトにある作品に近いと思う。ニューヨークと東京のJOINT。また、一部、英語でも書いたので、どこにでもだ。
 また、それはロードムービー、ジョナス・メカス。寺山修治の『書を捨てよう、町に出よう』、浮世絵など、世界的、伝統的なやり方で、時間や、場所が変われば見えてくる風景も変わってくる。それだけだ。
 
 あと、もう一つ頭の中にあったのは、ドクメンタ9のディレクターのヤン・フートが東京に来た時に語っていた、作品を作る時に、友達に会いに行く電車の中で、色々、電車の中や、外の景色を見て探したけど、何も、見つからなかった話。あと、日本の学生はみんな、写真で絵や彫刻を見ていて、経験に基ずいて制作していないと感じた事。人間の目は球でできていることを忘れるないでほしい、と言っていた事だ。

 それ以外に、比べてみると、おもしろいと思うのは藤原新也の『東京漂流』。これは、ノンフィクションだが、八十年代始めにインドを放浪して帰ってきた、藤原新也は、東京のアルファベットの看板などが溢れる、ポストモダンな風景を嫌い、倉庫街で、文化的な匂がしないとゆう理由で芝浦に住む。そして、日本の建て売りの家をショートケーキや、集合住宅を兵舎に例えた。
 僕自身は別に集合住宅は嫌いではないし、日本には優秀な建築家や建設会社もあるのだから、これから徐々に、いい建築を作っていけばいいと思う。むしろ、今は制作場所の方に困っているのだが、インドやアジアの方はあまり行ったことがないので行ってみたいと思う。ニューヨークでは、主に学生だが、台湾、中国、タイ、韓国、シンガポール、バングラディシュなどアジアの人と英語で話せて、友達も何人かできたのは良かった。ニューヨークで英語で話すのは対等な立場だし。

 それ以外には、アランレネの『二十四時間の情事』。「君はヒロシマで何も見なかった。レニングラードで、マダガスカルで、ドレスデンで、ハノイで、サラエボで(映 画 史-JLG)」

 この物語を作っている間、かつて自分の観た映画のシーンが浮かんできたりして、似ているところなどを考えてみた。どこが?と思う人もいるかもしれないが、キューブリックの『二千一年宇宙の旅』、ベルドリッチの『シェルタリングスカイ』、『銀河鉄道999』、『ブレードランナー』、『007』、カラックス、ベンダース、ゴダールなどの映画など。ある意味では、この作品は僕にとっての、映画の概念、コンセプトで、シネマ・シネマではないけれど、シネマティック・ライティングだ。でも、言葉を用いてしかできない事もやっているので、その意味では文学だと思う。
 あと、最近のハリウッドは妥当性に欠ける、おもしろくない話が多くなってきているが、僕の好きな映画にクリント・イーストウッドの『アイガーサンクション』とゆうエベレストを登る映画がある。これはプラトーの映画だと最近気が付いた。すばらしい、ロケーションで撮影されていて、結局、頂上まで行かない所に、全体のストーリーとは関係なく何か物語がある。
 小学生の時にテレビで観て、近くの山や壁を登っていたのを覚えている。NYで僕が続けて授業を取った版画の教授の、ブラウスチンが「Art is long way.」と言っていたが、最近、ビデオで『アイガーサンクション』をまた観ていたら、イーストウッドが美術の教授で「Art is long way」と言っていたのには少し驚いた。偶然かもしれないが、無意識とゆうものに、少し興味がある。
 
 何が文学かとゆうのは色々あると思うが、坂口安吾は芥川龍之介の作品は、もっぱら心理面、人間通の小説で思想性がない事を指摘していたが、確かに社会哲学的な知識はあまりなかったと思う。また、今と芥川の時代では、得られる情報の量が全く違う。少し実存的だと言える。その意味では、柄谷行人とかも、偉大な文学者なのかもしれないが、理論は具体的に、現実のどういった事をさしているのか、わかりにくいこともある。その点、物語、小説はその時代の生きていた様子を知る事ができるし、僕は芥川の作品は好きだし、偉大だと思う。
 しかし、今は芥川の時代とは違う。行こうと思えば、どこにでも行けるし、インターネットなどもある。一部の日本の文学者は文壇実存主義的なところがあり、それは批判されてしかるべきだろう。

 あと、映画はもっと文学よりも、具体的に現実を記録する。コメディであれ、ギャング映画であれ。本当は映画も撮りたいのだが、その為にはもっと他の方法が必要だし、予算や共同で働く人が必要だろう。アートも大きな作品を作る空間がないとゆうのも、中断気味の理由の一つだ。東京は空間が高すぎるので、しばらくしたらどこか、別の場所に行くのがいいのかもしれない。映画は八ミリやビデオでも何か撮るかもしれない。ドローイングや物語を作るのは、基本的で、本質的なのでとてもいいのだが。
 
 思い付くままに書いてしまっている感じがあるが、このサイトのフロントページについて、少し述べておこうと思う。A YUJI ITO JOINTと書いたが、JOINTとゆう言葉を使っていたのは、スパイク・リーだ。
 今から、十年ほど前に日本で始めてスパイク・リーの『DO THE RIGHT THING』が公開された。黒人初の映画監督として、紹介されてとても印象的だったのを覚えている。そのことと、僕がブルックリンの美術大学に行ったことと直接関係はない。でも、スパイク・リーはプラットのネイバーの監督で、デカルブ・アベニューにある彼の店も知っている。
 昨年、彼のコメディーを観ていて、A SPIKE LEE JOINTと書かれていることに気が付いた。FILMと書くよりコンセプチャルで、スピリチャルだと思った。色々な意味に取れるが、彼は最終編集権を持つ数少ない監督の一人だと、この前プレミヤとゆう雑誌で語っていた。
 あと、フロントページでは、AAAやJOKERを思った人もいただろう。または、環境問題の事を思ったかもしれないが、英語と日本語で見ても、文字化けしない様にローマ字を使ったら、偶然こうなった。

 映画は、行った事のない場所の人々の生活を、かいま見ることができるのがいいところだ。実際に行けば、知ることができるとは限らないし、虚構をしつらえることによって、現実により近ずくこともできる。アートや文学もまた別の方法で真実や現実に近づく。
 最近では、キアロスタミの作品が、僕のイランとゆう国のイメージを変えて、スパイク・リーと似たような感じがあった。あと、『ロック・スットック・アンド・トゥー・スモーキングバレル』もそうだ。
 ベンダースは、映画は人間の芸術である、と同時に物の芸術でもあって、その二つが一つになっていく、と語っていた。
 また、映画はそもそも、トランス・リージョナルなメディアで、インターネットがその次に来たと思う。テレビや新聞は国内向けのメディアで、そのことに対する、フラストレーションや情報操作への苛立ちは、ずっとなくならない。大企業をスポンサーに持つテレビや大新聞は、ジャーナリズムと企業の広告が曖昧に混ざりあっていて、客観的な報道を期待する方が間違いかもしれない。無意識に情報操作を行っているとも思える。

 この十年とゆうのは、冷戦後の民族紛争が世界各地で起こったわけだが、僕がブルックリンに最初に行った年に、LAで暴動があって、NYでも少し飛び火して、少しテンションが高かったのを覚えている。
 最近ではユーゴのNATOによる空爆があって、日本政府は賛成していたようだが、個人的には市民への空爆には反対だ。
 どうして、市民の変わりに、指導者のミロシビッチをもっと早い段階で殺さなかったのかとゆう疑問がある。混乱するから、とゆう人もいるが、ロシアで、ゴルバチョフが捕まった後、エリティンが出て来たように、次の指導者は必ず現われるものだと思う。もちろん、指導者を選んだ市民にも責任があるが、全員ではないはずだ。また、スーザン・ソンタグも言っていたが、ミロシビッチの様なタイプは、多少市民が死んでも気にしないのではないか。フセインなどもそうだ。
 偶然読んでいた、ビル・ゲイツの『スピード思考の経営』の中に、現在のミリタリー・テクノロジーの事も書かれていて、今はより正確な空爆が可能だとゆうことが書かれていた。
 ユーゴの事は詳しく調べていないが、これは僕の意見であって、疑問でもあるわけだが、とにかくあの様な市民への空爆は、知的な人間なら無批判ではないはずだ。また、日本で政府の意見と市民の意見がいつも同じではない様に、ずれはどこの国にでもある。

 日本では、地域紛争とともに、それを利用して軍備増強をとなえる反動的な勢力が常に現われるが、自衛や、国際社会の最低限のルールを犯した国への、警察の様な平和維持軍が、ある程度必要な.のはわかる。しかし、やはり平和維持の基本は紛争に至る前の外交にあると思う。
 外交努力をしないで、軍備増強のみを唱えるのは、本末転倒だと言えるし、彼等は日本人以外と話した経験すらないから、結局単に無知なのだ。今は世界に情報はすぐ伝わる。
 外交は数人の政治家だけがやっても、意味がないので、経済交流。しかし、ここ十年以上は、日米間においては、経済摩擦の方が目立っていたので、経済以外のあらゆるレベルでの交流が必要だろう。とにかく、大企業、多国籍企業の引き起こす経済摩擦に巻き込まれるのは、迷惑以外の何ものでもない。

 最後に、東京のアートシーン全体は、少し低調気味だと思うが、ユーロ・スペースで、今、ジャン=リュック・ゴダールの『映 画 史』が世界初の劇場公開を行っていて、第一部を観てきたところだ。一度、観てから、テキストを買ってきて、読んでからもう一度観てきた。それもあって、制作の方が少し遅れているのだが、ビデオのプロジェクターの状態は充分だと思った。僕の知る限りでは、松下がタラリアとゆう、動かすのに特別な技術者を必要とするビデオプロジェクターを持っていて、これはフィルムと同じ様に大きな劇場でも鮮明だ。十年近く前なので、今はもっといいのがあるかもしれない。
 『映 画 史』の第一部は、正当的な名作を中心に、映画だけではなく、映画に撮影され、語られる、文学、哲学、絵画、音楽などの、歴史。また、二十世紀の映画が記録した主に欧米の歴史。言葉による歴史ではなく、映画による投影された歴史、『すべての歴史』で始まって、簡単に語るのは難しいのだが、僕はとても充実した、感動的な時間で映画を観ることができた。
 本質的に美しく、印象的なモンタージュとオーバーラップが続いて、映像だけではなく、サウンドと音楽と語りのミックスは、いつものことだが、本当に見事だ。
 以前、ビデオで観た映画のシーンも出てきたが、やはり大きな画面で、違うモンタージュとオーバーラップで観るのはとても新鮮だった。
 『映画だけが』とゆうところでは、批評家ダネーとの会話などもでてくるのだが、カイユ・デュ・シネマのグループは、映画とゆう現実を写すメディアと向き合って思考を行っていただけに、二十世紀の知性と言えるかもしれない。長くなるので、『映 画 史』についてはこのあたりで止めておくが、第二部も観に行く予定だ。
 また、関連作品などもじっくりと見ていきたい。ゴダールの『映 画 史』は二十世紀最後の、本当の意味で、歴史に残るアバンギャルドだと思う。


平成12年6月 東京にて

伊藤 祐二
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