ディスカッション1


 部屋の中では十六ミリの映写機が音を立てて回っている。映画は一秒間に二十四回、シヤッターが切られて撮影される連続写真だ。見る時はそれが同じ速度でスクリーンに映写されるのが、人間の目の残像や知覚の曖昧さなどによって、スムーズに動いているように見える。しかし、人によってはそれを一枚づつ見ることができるとゆう。
 かつて、福原龍介がよく交流を行なっていた人の中から、そういった人を見つけ出すのはそれほど難しいことではなかった。いわゆる映画産業の中にもそういった人間はいるのだが、職業とは必ずしも関係があるわけではない。

 スクリーンではなく、今日は直接白い壁に映像が写し出されている。知美が友達のゆり子と撮影してきたフィルムを、知美とゆり子と龍介の三人で見ている。本当はあと二人メンバーはいるはずだけれど、今日は来ていない。奥の部屋に置かれた映写機から映写されていて、それほど距離がないので、壁に三メートほどに写されている映像は少し眩しく感じられる。



 街角でゆり子が三脚を立ててビデオか八ミリのカメラをセットしている。
 ゆり子の顔のアップ、カメラ越しに街を見ている。そしてファインダーを覗く。
 新宿の東口から西口に抜けるガード下付近の映像。カメラを左右にゆっくり動かして撮影したり、アップで看板などを、ほんの数秒だけ、いくつも、いくつも写真のように撮影していった映像が続く。
 
 ゆり子が芝生の上で膝をかかえて座っている。ゆり子の後ろの奥の方には、森がどこまでも遠くに続いているのが見える。
 ゆり子の横顔がしばらく写る。なにか落ち込んでいるような、考え込んでいるような表情をしている。
 再び、膝をかかえて座っているショットがしばらく写ったあと、雨が一瞬オーバーラップされて、全く同じ構図のまま、本当に雨の中にゆり子が膝をかかえて座っているシーンに変わり、それがしばらく続いた。ゆり子は雨でびしょ濡れになってしまった。

 知美が何か大きな木の枝のような物を、たくさん、両腕にかかえて、田舎のような道を遠くから歩いてくる。真夏の日差しがとても強く、陽炎がゆれている。

 版画のスタジオ。知美とゆり子が二人で版画を刷っている。大きなプレスの機械を回す知美。
 深い藍色で刷られた、ヌードの絵。
 プレスの機械が動いている。二メートルほどの大きな紙に二人で協力しながら、作業をしている。
 藍色のヌードに、深く茶色がかったローズ・レッドが刷られている。さらに濃い黄色の背景などがオーバーラップでゆっくり重なっていく。

 人の顔が線で描かれた、白黒の版画が、画面の左上からゆっくり一枚づつ増えていって、十枚ほど画面いっぱいに並べられる。

 コンピュータの画面がそのまま写っている。画面には後ろ向きで足を組んで、体をねじったようにして、肘をついている女の人のヌードが、太く濃い線で描かれて写っている。
 少し青っほい灰色の背景が、画像操作で階調が反転して、一瞬にして、薄いバーンド・アンバー(茶色)に変わる。黒で太く描かれた線は、真っ白な線に変わる。それが、コンピューターの画面上で光って見える。
 ベッドルームを撮影した、新しい写真画像が少しずれて重なって現われる。窓の外には、春の椿か、桜のような花が咲いているのが見える。部屋の中は少し暗い。その写真に、さっきのヌードの線画の、背景が取り除かれたヌードだけの画像が、何段階かに分かれて縮小されたあと、窓のところに合成される。
 さらにその画像の上に、エアスプレーのようなツールが現われ、少し紫がかった白がスプレーされ、そこに、英語の文字がタイプされた。

 静止した映像で、花や草などがアップで撮られた映像がしばらく続く。湖の上を動く野鳥の映像。

 かなり暗く、少し青っぽい部屋にゆり子が座っている。スローモーションの映像で、カメラはゆれながら、ゆっくり、ゆっくりと、ゆり子の方にカメラは近づいていく。やがて、ゆり子の横に座るようにして、ゆり子の横顔を撮っている。
 
 早朝、まだ夜が明け始めたばかりの外。霧が湖にかなりでている。青い色調の画面。ゆり子の顔が画面の右下に写っている。背景は湖が見える。ゆり子の目、唇がアップで、少しピンぼけでしばらく写ったところで、フィルムがすべて終った。



「あの雨が降ってくる、森のシーンは井の頭公園?」
「そう。」
「そうか…、ずっと森が続いているように見えるね。」
「上の方の、武蔵野雑僕林ってところで撮影したんだけど、車道の標識とか柵とかはづすと、角度によってはあんなふうに見えるのよ。結構、井の頭公園って端から端まで二、三キロはあるんじゃないかな、自然文化園とかぜんぶ入れると。」
「知美も私も近くに住んでいるからできたんだけど、結構あれなかなか、雨にならなくてだいぶ待ってたの。」
 知美とゆり子は二人でうなずきあっている。

「誰があれ考えたの?」
「ほとんどイメージは知美。」
「ゆり子は主演女優と音楽担当。版画のところとか、二人で少し話し合って決めたりしたけど。」
「雨にずぶ濡れになってたけど、風邪とか大丈夫だった。」
「ううん、ずっと、ものすごく暑い日が続いてたから、あそこまで全部雨に濡れてしまうと結構気持ちよかった。」
「そうか。森の中で雨が降ってくるっていうの、何かありそうな設定だけど、あれはすごくきれいに、晴れた日からシンクロしてたね。」

「あの、最後にゆり子が写ってたの、あったでしょ。」
「うん。」
「ゆり子、きれいに撮れてたでしょ。」
「うん。プライベートな感じでなかなかよかったけど。」
「あれ、ゆり子が最後カメラ持ってて、花とか野鳥とか撮影して、現像に出す前に余ったフィルムで哲也君がゆり子のこと撮ったやつなの。」
「あっそうか。いや、ちょっとこれはレズビアンの映画っぽくなりそうだなって思ってたけど、哲也君は今回どうするの。前、参加するようなこと言ってたけど。」
「何か最近仕事が大変みたい。でも、すごいおもしろがって、カメラ回してた。」
「今日も仕事?土曜なのに?」
 ゆり子はつまらなそうにうなずいた。
 あっそうだ、と言って知美はカセットテープを取り出すと、歩いていって、ラジカセの中にテープを入れた。

 ラジカセからは、なにかインドかどこかの楽器のような、トロンボーンのような、ちょっと聴いたことのない変わった音色がギュイーンと長く伸びるメロディが、電子音楽で心臓の鼓動とよくにた調子の、低いトーンのリズムに乗って流れて、そこに時々、スターダストのようなピアノが入るインストルメントの音楽が流れ始めた。

「すごいね。これどこに使うの?」
「これは、知美がたくさん木の枝を持って、田舎のような道を歩いているシーンから作ってみたんだけど。まだ、はっきりとは決まってないの。」
 
 そのあと、ピアノ、バイオリンなどを使った短い曲が続いたあと、ボサノバが流れ始めた。

「ほら、前、龍介くん言ってたじゃない。新宿にはボサノバが合うって。」
「そんな事、言ったっけ。」
 
 初期のYMOの様な、軽快なドラムにトロンボーン、ゆったりとしたバイオリン、ピアノ、切れのいいアコースティック・ギターの入った、ボサノバが流れている。

「これ、ドラムとトロンボーンはサンプリングだけど、バイオリンとかギターはゆり子が弾いてるのよ。ゆり子は、本場だから。」


「ああ、この前、不況で混沌としてきた新宿で、タイトでクールなボサノバでもかけたら、少しは気分がスッキリするような気がしたんだ。ボサノバ自体はものすごく洗練された音楽だけどね、あの時かかってた雑音みたいな音楽とは比べ物にならないくらい。ビジネスマンとかが、働いてるシーンとかにも合うかもしれないよ。そういえば、ジョビンの娘がうちの学校に通ってたんだ。」
「へー、そうなんだ。」
「うん、インターナショナル・ステューデント・アフェアーズのディレクターのナディアって人がいて、僕もとてもお世話になったんだけど、ジョビンの娘がいた頃は、みんなでよく、無料でジョビンのコンサートに行ってたらしいよ。ジョビンの娘がチケット持ってくるから。」
「ジョビンて、誰だっけ。」
「アントニオ・カルロス・ジョビン。ブラジルとかでは、有名だよね。ほら。ジョビンとかジョアン・ジルベルトとかが、ボサノバってゆうジャンルの音楽を作ったんだ。ブラジルのサンバとヨーロッパの音楽とかをミックスして。ブラジルとサンバを愛した、大学とか出た知的な人達がたくさんブラジルに行って、現地の人たちと生活を共にしながら音楽を作ってたらしいよ。それで六十年代にジョビンはニューヨークとかアメリカでツアーをやって、『WAVE』ってゆうアルバムを出したんだけど、これが大ヒットしたんだ。そうだよね。」
「うん。私もとにかく、あのへんはかなり複雑だから、はっきりとはわからないけど、昔からヨーロッパからの移民がブラジルにはたくさんいたから、ボサノバみたいな音楽はあったんだけど、ボサノバって呼ばれる音楽を作ったのはジョビンとかの世代だと思う。ジャス・サンバとか、ブラジリアン・ジャズともボサノバはまた少し違うの。」
「『イパネマの娘』とか、英語じゃなく、ポルトガル語で歌ってるわけだから、英語以外の歌がアメリカでヒットしたってゆうのも、そうあることではないよ。」

「そうなんだ。そのジョビンの娘が龍介の学校に通ってたんだ。龍介の学校の卒業生であと、どんな人がいるの。」
「そうだね、とにかくたくさん、アーティストとかデザイナーやアーキテクトとかいるけど、アートとかあんまり知らない人でも、知っている人では、ロバート・レッドフォードとか。」
「ロバート・レッドフォード。サンダンス映画祭ってロバート・レッドフォードがやってるんでしょ。」
「そう。ロバート・レッドフォードは『華麗なるギャツビー』とか『追憶』とかで最初、俳優としてデビューしたけど、最近、監督とか映画祭のプロデュースとか本当にいい仕事してるよ。ちょと保守的だけど、あい変わらずかっこいいし。今、アメリカの一部のインディペンデントのフィルム・メーカーの間ではゴッド・ファーザー的存在だってね。」

音楽はボサノバの次に何曲か続いたあと、トライアングルとピアノとギターのとても静かな曲に変わっている。

「これもすごくいいと思うけど…、全部音楽つけてるの?なんか、多くない。」
「ああ、知美が描いた絵とかからも、作ったりしたから…、作りやすかったから、何曲も音楽は音楽で作ったの。」
 知美は前回、何枚も水彩や鉛筆で描いた、ドローイングを持ってきていた。
「あの、絵とかはどうしたの。」
「うん、最初、絵を描いてから、そのイメージを映像にしようと、思ったけど。結局、イメージに合う、場所が全然見つからなかったり、イメージどおりの映像にならなかったりして、また、場所から考え直したりして、結局あれだけになったんだけど。本当は、もっとたくさんあったし、最初考えてたのはもっと違う感じだったんだけど。」

「そうか。でも、これ一つの映画として考えてるの、それとも、短編の映像詩みたいなのをたくさん作るつもりでいるの?」
「まだ考えてない。これ共同制作で、今日はそれを話合うために集まったんでしょ。」
「そうか…。いや、なんか知らないうちにだいぶ進んでいるから。」
「だって、龍介電話したけど、全然いなかったじゃない。だいたい、一番最初に作ろうって、集まったのが春で、この前会ったのが、夏の始めの頃で、夏ももう終っちゃうじゃない。だから、ゆり子と二人で作り始めたの。ね。龍介も何かアイデア出してよ。きちんと、制作費も分担で払うんだからね。なんか、さっきから、いいねーとかばっかり言ってるけど。」
「おれも色々忙しかったんだよ。とりあえず、いま、初めて見たばかりだから、すぐには無理だよ。いろいろ方向性とか話し合ってからじゃないと。共同制作も数人で脚本書いたり、話し合ったあと、一人で作ったり色々やり方があるみたいだし。これテーマみたいなものはあるの?」
「創造への情熱。」

「ヤン・フートが言ってたじゃない。まず、始めにあるのは創造への情熱だ。コンセプトは後から付いてくるって。あと、なにか作品が生まれる瞬間、みたいなのを撮りたかったの。」

「ああ、それで、版画を作ったりしてるところや、コンピューターのモニターとかを撮影してたんだ。」
「そう。でもプロセスを見せるとかそんなんじゃなくて、ほら、グラフィックとかでも、一本の線の長さを少しだけ変えただけでも、すごく良くなったり、絵を描いている時でもしばらく、ずっと何時間も描いていくうちに、ある時なにか、ほら、天使みたいなのが降りてくる感じで作品ができる時があるしょ。ゆり子も、そう言ってたもん。」
「言っていることは、わかるよ。うん、とても、おもしろいと思うけど。」
 
「あと、『芸術のための芸術』ってわけじゃないけど、もうアートとか好きな人に見てもらいたいの。『PASSION 』とか『終電車』みたいな。」
「確かに、すごい巨匠の作品、ピカソとかフェリーニでも何でもいいけど、そうゆうのを見てもなんとも思わない人に、おれたちが作った作品とか見せても無理だと思うよ。詳しい知識とか、あまり具体的な作品を多く知らないけど、興味はあるって人ならわかるけど。ところで、『終電車』って誰が撮ったんだっけ。」
「フランソア・トリュフォー。」
「ああ、あれ、トリュフォーか。実はトリュフォーはあんまり観てないんだけど、昔、中学の頃『終電車』は映画館で観たんだ。オレの田舎は、普通の一地方都市で、普通の映画館ではトリュフォーの映画とかはやらないんだけど、一日だけ、レイト・ショーみたいな感じで、毎月そうゆう映画を上映する会があって、そこの会員だったんだ。あれは、カトリーヌ・ドヌーブが第二次世界大戦で、ナチスに占領されたフランスで、苦労して演劇を上演するって話だよね。演出家がユダヤ人で地下に隠れてるってやつでしょ。」
「そうそう。よく覚えてるね、だいぶ前でしょ。」
「うん、封切りではなかったと思うけど、それに、近かったにじゃないかな。八十年代の初め頃だったから。あと、『 PASSION』も確かに、映画作りの話で、パッションは映画作りの情熱のパッションだと思うけど、それ以外に、恋愛のパッションや、映画制作における、資本と経営と労働者の関係とか、映画そのものについて語ったりする、かなり複雑な映画だよ。まあ、ゴダールの作品には、よくあるパターンではあるけどね。…思想的つながりのないイメージは虚ろで遠い。」
「何それ。」
「いや、たぶん『PASSION』だったと思うけど、ゴダールの映画の中のセリフにあったんだ、そうゆうのが。ほら、今、とゆうか、だいぶ前からだけど、ちょっとカッコいい映像とか、ビデオ・イフェクターとかコンピューター・グラフィックを使ったりして映像は溢れてるでしょ。知美もデザイナーだからわかると思うけど。」
「わかるけど、さっきの映像とかも、そうかな。」
「そんな事はないと思うよ。新宿とかで撮影したやつとか、そういったことを意識して撮ってたんでしょ。それに、まだこれからだし。」
「最近、知美と二人でゴダールはビデオで見てみたんだけど。私は『軽蔑』とか『ヌーベル・バーグ』が好きだな。」
「あれは、物語もあるし美しい映画だと思う。音楽も凄くいいし。」
「そう、そう。ちょっと、『軽蔑』の初めの音楽とか、パイプ・オルガンの音楽とかはすごいと思った。」
「まあ、ゴダールも色々あって、いきなり、『新ドイツ零年』とか難解なのを見てしまうと、たぶん普通の人は嫌いになってしまうんだろうだけど、『ベトナムから遠く離れて』は?」
「それはまだ、見てない。」
「あれは、たいていの人は、タイトル見て暗いから飛ばすんだけど、本当に凄い映画だよ。もしかすると、あの映画に参加したから、JLGは今でも、熱狂的なファンがいるのかもしれない。『気狂いピエロ』とか『勝手にしやがれ』なんかよりも、オレは好きだね。あれはドキュメンタリーで、今まで世界中のドキュメンタリーも色々見たけど、かなり上位にくる作品だよ。クリス・マイケルの呼びかけでゴダール以外にアラン・レネとか複数の監督が撮影したんだけど、ベトナム戦争期間中に、実際ベトナムに行って撮影したり、とにかく凄い突っ込みをしてるんだ。ゴダールはベトナムから入国する許可が降りなかったので、何がなんでもベトナムに行かずに、ベトナムが自分の中に入り込むのを待とうとかしたり、それで、別の監督がキューバに行って、本物のカストロにインタビューしたり、マルコムXの本物が出てきたりするんだ。スパイク・リーが撮った『マルコムX』では、マルコムXは何か、不良少年あがりの運動家みたいな感じだったけど、本物はかなり知的な感じの人だった。まあ、アメリカではジョン・F・ケネディーもそうだし、キング牧師やジョン・レノンとか優秀な運動家は多く射殺されてしまったけどね。とにかく、ベトナムものと言えば『地獄の黙示録』や『ディア・ハンター』とか合衆国サイドの作品が多いけど、『ベトナムから遠く離れて』はかなり、中立的な立場から作られた作品だと思う。最後にニューヨークが出てくるんだけど、あれは本当に感動的だよ。」

「そうか。じゃあ見てみようかな。ゴダールは、今はどうしてるのかな。」
「ゴダールは『映画史』を作ってるよ。ゴダールにとっての『映画史』。でも、フェリーニも死んだし、黒澤明も死んだし、もしゴダールが死んだら、いわゆる巨匠は誰もいなくなってしまうかもね。淀川長治さんも亡くなったしね。ある意味では、映画も終りつつあるのかもしれない。あと、九十七年の現代美術の国際展のドクメンタィには、ゴダールの作品が出品されたらしいね。スクリーンの上を普通の映像ではなく、文字がゆっくりと移動している様な作品だったらしいけど、今世紀最後のドクメンタにも関わらず、行けなくて本当に残念だった。前回、九十二年のヤン・フートの時は行けたのに、今回はそれどころじゃなかったからな。出品された作品はたぶん、現代美術のインスタレーションみたいな形式だったと思うけど、ゴダールの六十年代の『気狂いピエロ』とかの映画の内容や、映画そのものの作り方は、かなりモダン・アートと対応しているんだ。
 ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコとか抽象表現主義の作家よりあとの、クレメント・グリンバーグとかマイケル・フリードとかの美術批評とかに対抗したりしてるんだ。でも、日本の映画評論家はその事はたぶん全然知らなかったと思う。フリードとか言っても、名前も知らないんじゃないかな。日本語訳が出ていなかったりするから。おれは大学でテキストとして読んだからね。
 日本に帰ってきて、昔一度、映画館で見たんだけど、もう一度ビデオで見ていて気が付いてしまったんだ。映画の最初の頃で、気狂いピエロがサミュエル・フラー本人に『映画とは何か』って聞くところがあって、フラーはバトル・グラウンドの様なものだって答えて、ラブ、ヘイト、デス、アクション、バイオレンスって続けて、最後に一言で言えば、エモーション(感情)だって答えるんだけど、『…とは何か』って考えたり、それを突き詰めていくこと自体が芸術におけるモダニズムの流れだから。六十年代とかは特にね。 芸術の自己純化、自己批判ってことだけど、それは美術評論家のさっき言ったグリンバーグとかが言い出したんだけど、もともとはカントからきているんだ。これは結構重要で、ただ見ていただけでは、ジャッドとかはグリンバーグを知らないと実は何がなんだか分からない。あと、ダイナマイトで最後、気狂いピエロが自殺して、そのあと水平線に青空の映像とランボーの詩が聴こえるところなんか、フリードの言っていた、永遠に突き抜ける一瞬ってやつと重なるんだ。ゴダールはハリウッド映画の流れとは関係のないところで、それに対抗しながら、アートと平走していた感じもある。とにかく、ゴダールの作品はただ映画だけをたくさん見ていたからって、わからないよ。
 それ以外にも、ゴダールの映画は色々な要素があって、『軽蔑』とかはポップな方だけど、理解するのにかなり知的なバック・グラウンドを必要とする作品もある。もっとも、ゴダール以外の映画や、芸術の他の領域にもそれは多かれ少なかれ絶対に言えることだと思うよ。ゴダールの難解なタイプの映画とかも、たぶんその事をある程度承知で作られているような気がする。ゴダールの意図したもの、すべてが伝わってほしいとは考えてないと思うよ。全く誤解してくれとは思ってはいないだろうけど。おれも『新ドイツ零年』なんかビデオで見たけど、二回くらい観て完全に理解できたとは思えないよ。まあ、ゴダールは意味よりも、観客の中にもう一つ映像が残ればいいみたいな事を言っていたけどね。
 しかし、ここのところずっと、週三本ぐらい映画をビデオとかで半年以上観ているせいもあっておれも淀川長治さんみたいになってしまったな。でもあの人は若い頃から毎日必ず映画を一本は観ていたとゆうから、それはそれで凄いことだし一つの自己限定の在り方だと思うよ。おれなんか、昔から映画はよく見ていたとはいえ週三本ずっと見続けてると、ちょっと消化しきれないとゆうか、集中力や感動が薄れてしまう気がする。作家は他の人の作品の観賞ばかりしていてもしょうがないしね。いずれにしろ、淀川長治は偉大な映画評論家だったと思いますね。」
「あのさ、前から一度、龍介に聞きたかったんだけど、龍介は映画関係の仕事とかしてたり、自分でも、八ミリや十六ミリで映画とか作ったりしてたのに、なんで大学の専攻をファイン・アートにしたの。」
「実は映画を作る前に少し絵は描いていた時期があったんだけど、メジャーに関してはいろんな理由があるんだ。まず、映画の歴史と言っても、百年くらいしかないからね。でも、視覚芸術の歴史はそれこそ、それに比べて日本だったら、縄文時代からあるわけだし、人類最初の絵はアルタミラやラスコーの洞窟の壁画からあって、何万年とゆう歴史がある。神の作った自然とゆうのもいいけど、おれは人間の作ってきた物が好きなんだ。 さっき知美が、芸術の生まれる瞬間って言ってたけど、もっと作品を作り始める前の段階とゆうか、動機のようなものとかに興味があって、それを勉強したかったのもある。人間はいろんなアプローチの仕方で芸術作品を作ってきたわけでしょ。印象派とか、表現主義とか、ダダ イズムとかシュールリアリズムとか本当に色々ある。あと、エジブトとか、ギリシャの様に奴隷制度のあった頃の彫刻とか実際、自分の目で見てみて、現代の芸術について考えるとか。
 あと、コクトーとかは詩人だけど、絵を描いたり、映画を撮ったりもしたし、八十年代後半のメディア・アートとかの影響もあったと思う。仕事としては映画のセット・デザインをやろうとか考えたり、英語力とか、制作費の問題とか、大学での専攻の理由は色々だよ。でも、昔と今とでは、だいぶ自分にとって芸術とゆうものに対する考え方は変わったと思う。英語が全く話すことができなかった頃、英語を話している自分を想像するのが難しいようにね。今はその逆の状況にいるのかもしれない。
 おれは、TOEFLの試験とか受けていたし、基本的な英会話は日本にいる時からできたんだ。映画を字幕なしで見たり、FENを聞いたりしていたからね。あと、三カ月ぐらい英会話の学校に通ってから、その頃は吉祥寺に外国人の集まるクラブがあって、そこで色々な国から来た人と話をしていた。
 今はそのクラブはない。でも、当時は今に比べてたくさん外国人が東京にいて、テキサスから来た黒人のDJがいたり、大手電気メーカーに勤めているとゆう長髪の白人の青年が、日本人の彼女がいるらしいけど、その彼女は実は自分を外国に行くために、利用しているだけなんだ、僕は本当の日本の女性に会いたい、とか言って酔いつぶれていたりね。まあ、クラブだから、少し退廃的な雰囲気はあったんだけど、おしゃれな感じの女子留学生や、色々な国を旅していて、その途中でその店でバーテンの仕事をしている人とかと話せて楽しかったし、少しは英会話の自信もついたりしてたんだ。
 でも、最初ニューヨークに着いた時は、あまり英語は聞き取ることができなかった。おれが行ったの冬で、マンハッタンとかは雪が降っていて、イエローキャブのタイヤの音や、街を歩いている人達の話し声とか、すべてサウンドとして聞こえたんだ。」

「しかし、おれ達、好きな映画は外国の作品が多いからな。それもあると思うよ。撮りたいイメージに合った場所が見つからなかったりするのは。東京の近くで、ロードムービーを作ろうとか言っても。」
「ロードムービーって、やっぱり道とか、スタジオではなく、外で撮影するのを、ロードムービーって言うんでしょ。」
「うん、たぶん。おれもそれは良くわからないんだけど、ヴェンダースとかロードムービーとか言ってたし。あと、フェリーニの『道』とか、『イージー・ライダー』みたいに、旅していくようなのじゃないかな。」

「この前、ウッディ・アレンの本を読んでたら、ベルイマンの『野いちご』とかは、ロードムービーで、あれは主人公の人の心の旅だとか言ってたけど。」
「その映画見てみた?」
「うん。ああゆう古い名作みたいな映画は最初とか少しパワーがいる様な気がするけど、見た後は何かが残るし、見て良かったと思うな。」
「そうか、ウッディ・アレンは映画は演劇より、小説に近いと言ってたね。実際、アレンはニューヨーカーとかに、短編小説を書いたりしてたし。あと、フェリーニは映画はダンスに近いと言ってた…。最近、古本屋で、フェリーニやコクトーの作家自身が語った本を半額ぐらいで見つけたもんで、まとめて買ってきて読んでたんだ。
 しかし、東京にいると、映画館でもビデオでも、外国映画が字幕付で見れるのは本当にいいよ。ニューヨークは国際都市だから、さすがに映画館や大使館、文化センターで外国映画は見れるけど、ビデオ屋は、ほとんどアメリカ映画ばっかしだからね。日本語字幕もないし。
 黒澤、小津、溝口、フェリーニ、ベルドリッチ、ウエルズ、チャップリン、ヒッチコック、スコセッシ、イーストウッド、スパイク・リー、タルコフスキー、カラックス、ベッソン、キューブリック、アラン・レネ、デパルマ、スピルバーグでも何でもいいけど、重要な映画作家の作品は過去のものから、いつでも見ることができる。
 これは、たぶん、東京以外の少し大きな都市ならそうだと思うし、それはやっぽりすごいことだと思うよ。それが、日本の文化とゆうか、メディア・ランドスケープの一部だと思う。映画以外にも音楽なんかも、今は大きなレコード屋に行けばそうだし。
 たぶん、始めておれが東京に来た時からそうだったから、十年か、十五年以上は、もう、そうゆう状態にあるんじゃないかな。
 でも、その割に日本の映画制作にその成果が出ていないような気がするんだ。
 日本人は見る側に徹しているとゆうか、みんなが批評家みたいになっているとゆうか…。あと、過去の名作は、映像を制作している人間でも、きちんと見てないような気がするし。」
「わたし、ただ日本の常識に受け入れられるだけの生き方をして、映画を見たり、音楽を聴いたりしているだけで、何も作ろうとしない人は全然信用しないの!」
「それ、ドゥルーズかゴダールかが言ってたよ。私は人が物を作り出している限りにおいて、その人を信用するみたいなこと。もちろん、仲介業が悪いとかそうゆうことではないと思うけど。きちんとした仲介は労働だから…。」

「ところでさ、おれ春に会った時から、全く何も考えてなかったわけではなく、実はストーリーとかを考えてたんだ。おれ、もう十年以上も前から一度物語をきちんと書きたいと思ってたんだけど、映画の構成や簡単な台詞や、エッセイみたいなものは書いたことはあるんだけど、きちんとした物語は書いたことがなかったんだ。何度か書こうとはしたけど、どうやって書いていいかわからなかった。
 でも、この前、知美の言ってたウディ・アレンの本を読んでたら、とにかく書けない時はなんとか机の前に座って、物語をでっちあげる、みたいなことが書いてあって、ああ、ウッディ・アレンでもそうなのか…、と思って、机の前に座って、そうやって書いてみたら、なんと書くことができたんだ。脚本ではなく短編小説だけど。
 それで、今回の映画とは関係なくなってしまったとは思うけど、とりあえず、何も作ってなかったわけでわないとゆうことと、感想を聞いてみたいから、ちょっと読んでくれないかな?短くてすぐ読めると思うから。」
 
 そう言って龍介はコンピューターの方に歩いて行って、コンピューターを起動させると、小説の入っているファイルをクリックして、知美とゆり子が読めるようにセットした。

(注)この章は後日編集をもう一度やる可能性があります。
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