neuronet (1993,1995-96) 














*このエッセイは1995-96年に書いたもので、わずかに変更を加えた。1999。

私はよく、私達が芸術作品を作るとき、私達はある種の情報を作っていると思う。しかし、その作品の意味はその作品を見る人々によって作られている、と私は思う。私達は何かのメタファーとして作品を作るチャレンジはできる。しかし、芸術作品はいつも差異を含んでいる。また、芸術の目的はいつも意味を作ることではない。

しかしながら、私はこの作品を作っている間に何を考えていたのかを語ってみようと思う。カジュアルなエッセイとして読んでもらいたい。私はおもにこの作品をめぐって、次の主題について考えた。


1. ドゥルーズ・ガタリのリゾーム

2. テクノロジー

3. モダニスムのハードコア

4. 東洋と西洋

5. ジョン・ケージ、ダダ、坂本龍一

6. 時間、可能性

7. リッチ(豊)とプアー(貧)

8. その他


ドゥルーズ・ガタリのリゾーム

リゾームはドゥルーズ・ガタリのある種の概念で、彼れらの本「ミル・プラトー」の第一章だ。

80年代、リゾームとゆう言葉は浅田彰などの日本の知識人達が本の中で語っていたのを読んで知った。現代思想家の人達の間で、リゾームとゆうのはある種のキーワードのように思えた。そして、私はリゾームとゆう言葉を少し調べてみた。
そしてその時、私は簡単につぎの様に理解した。リゾームとゆうのはある種の概念で、それは二元論や区分され過ぎたシステムを超えて、ダイナミズムを取り戻す為のもので、現代社会についてだけではなく様々な事柄にあてはまる。また、リゾームは一点から始まる木のようなものでもなく。しかし、単に何の出発点もない多様態でもない。リゾームは自由にどこからでも結合でき、また切断できる。

93年頃、私はミル・プラトーの日本語訳を本屋で見つけた。特にその本を探していたわけではない。
思っていたのとはだいぶ違い、第一章のリゾームは文学か詩の様なものだった。そして、私はとても抽象的にそれを理解した。実際、かれらの本は難解で、理解するのに知的なバックグラウンドを必要とする。

ちょうど同じ頃、私は自分の作品、" neuronet "の一部を作り始めていたところだった。その後95年まで一度この作品は中断して、他のことをやっていた。
いずれにしろ、この作品を作っているときにドゥルーズ・ガタリのリゾームのいくつかのフレーズを思い出して、自分の作品と似ているところなどを少し考えていた。

コピーではなくマップ、しかしすでにコピーの質を持つマップ。コピーを作ることを避けること、しかしコピーによりマップを作ること、逃走線と強度、メカニカル・アレンジメント、器官のない身体、ポップ分析、ノマトロジー(遊牧論)、神経組織、自然にその質を切断、結合を繰り返しながら増やすもの、常に多くの入り口を多く持つもの、始まりも終りもなく中心で加速するもの...

この様な感じでこれらのフレーズについて少し考えていた。しかし、あまりに他のテキストや詩の様なものを取りだし単純化してしまうと、やはりもとの意味が失われてしまうので、このあたりで一度止めておこうと思う。
とにかく、作品を作りながらいろいろ考えを廻らせていたとゆうことです。


テクノロジー

93-4年頃、私はインターネットのことを聞いた。そして、インターネットはリゾームみたいなものになるだろう、とその時思った。実際、リゾームは特に資本主義について語られたものだ。インターネットは世界にリゾームの様に広がり、様々なチャンスを作っている。また、よく考えてみると冷戦も終っている。ヨーロッパの通貨の統合なども似たものがある。ドゥルーズ・ガタリはそれより以前にリゾームを書いていた。そして、それがほとんど実現されてきていると言ってもいいのではないか。しかし、一方ではそれ以前にリアリティがあった、書く意味があったとゆうクリティカル(批評的)な見方もある程度必要だろう。

この作品を作っている間、インターネットやコンピューター・グラフィックなどについても考えた。私は2, 3, 4 ...36インチの正方形を作っていった。まあ、手作りの作品だが、どちらかとゆうとデジタルな作り方だ。また、何か衛星からある地形を撮影した写真を集めたような感じもする。そして、いくつかはソフトで有機的な感じで、またいくつかは少しシャープで固い氷のような感じもする。

また、普通の自然なドローイングの線とコンピューター・グラフィックについての話も思い出した。おそらく、15年か20年前には植物や動物そしてスピルバーグの恐竜のような複雑な形はコンピューター・グラフィクでは作ることができなかった。そして、ある幾何学の方程式が発明されてからそれができるようになった。
しかし、ある科学者がコンピュター・グラフィックを含む最新のテクノロジーを駆使した顕微鏡で、自然に描かれたドローイングの線を見てみたところ、それは不規則に分かれていて、ほとんど無限に拡大していくことが可能だったとゆう。これは、肉眼では確認することができない領域の話だが、無意識に私達の目はそれを見ていると思う。

ただ、最新のコンピューター・サイエンスの分野では、無限に不規則なプログラムをジェネレートできるコンピューターはすでにあるとゆう。つまり理論上では、ある意味で自然にある物質と人間によって作られた人工的な物質はもう差がないとゆうことになってきている。
ただ、環境問題などで人工的な物質を作ってしまって、それが自然の物質にもう戻らなくてゴミの処理ができない、とゆう事柄とはまた別の問題ではある。
また、人が目で見るとゆう事に関しても、モニターやプリンターなどを通せば、すべてその解像度の許容範囲に還元されるので、その場合はその解像度に頼るほかない。また別の問題です。


モダニスムのハードコア

モダン・アート(近代芸術)で使われるモダンとゆう言葉と、よく歴史などで社会全体などに対して使われるモダン(近代)、プレ・モダン(前近代)などとは少し重なる部分はあるとはいえ、基本的には違う意味だ。念のために。
アートにおけるモダニズムはアートの自己純化、もっと簡単に言えば「アートとは何か。」とゆう事をつきつめていく事なのだが、それは絵画などだけではなく、60、70年代頃、盛んにジャズなどの音楽や文学、映画など広い意味での芸術全体の分野で同時に、平行してそうゆう「...とは何か」とゆうふうな言説がよく交されていた。また、今でもメディア(媒体)の特性についての言説は当然ある。
この作品を作っている時、わたしは日本の本で、「モダニズムのハードコア-批評空間」を買ってきて読んでいた。その本はアート(主に絵画)の抽象表現主義以降、フォーマリズム、ミニマリズム、そしてコンセプチュアリズムについてのものだ。クレメント・グリンバーグ、マイケル・フリード、ロザリント・クラウスなどの当時の主要な美術批評をめぐって、数人の日本の批評家やアーティストが主に理論的な面から色々なことを語っていた。抽象表現主義より後の作品は、グリンバーグなどが美術批評の中で提示したあるフォーム(形式、絵の見方)との関連が深く、アートの中で重要な大きな流れを作っている。そしてその本の中で、それらの批評を日本語訳で読むこともできた。

プラットにいる間、ファイン・アート・セミナーで、それらはすべて英語で読んだものだった。しかし、もう一度復習を兼ねて読んでみた。また、この作品 " neuronet " はモダニズムの流れに近いところにある作品だと思ったからだ。
実際、抽象表現以降の作品を全く知らなければ、この作品を芸術作品としては作らなかっただろう。

グリンバーグなどの美術批評をめぐっては、本当に色々な事を色々な人が言うのだが、簡単に今回、私が重要だと思ったことを少し話してみようと思う。

カントの自己批判から始まるグリンバーグの美術批評。私達はアートの本質への還元プロセスを、一つのとてもシンプルな流れで見ることができる。抽象表現主義、カラー・フィールド、ミニマリズム、(コンセプチュアリズム)。アートはすでにその" 0 "の本質に行き着いたかのようだ。

しかし、私はこれはアートの流れの一つに過ぎないと思う。またこの流れが最もハイ・アートか、あるいはアンダーグランドなものかとゆうことは余り興味がない。

また、アートをただ一つの大きな継続する流れとして、芸術史を考えるのはカント的とゆうよりはヘーゲル的だとも言える。カントは歴史を一つの継続する流れで捕えるのを否定している。カントにとって歴史とは物それ自体で決して人間にはつかみきれないものだ。カントは純粋理性批判などで人間の知性そのものを批判している。グリンバーグもまた「アバンギャルドはイフェクトで、リザルト(結果)についてではない。」とゆう様なことを言っている。ある意味では、ドナルド・ジャドやミニマリストなどはこの感覚がなく先に進め過ぎた。とも言えるし、グリンバーグは最後までペインティング(絵画)にのみこだわっていたので、歴史的な因習に囚われていたとも言える。個人的には、どちらが正しいとゆうことはないと思うし、ジッドなどのやり方も、モダン・アートの流れの一つとして否定したくはない。

人間の価値判断や認識について、カントは三つの領域に分けて考えている、知的な領域、道徳的な領域、そして感覚的な領域。

文学者の夏目漱石などもF(知性、道徳)そしてf(感性)に分けて考えていた。そして、彼はFとfは量的に計ることができると言っている。

カントは論理的な認識と感覚の根本的な違いについても語っている。そしてこの二つは想像力によって合成されるとゆうふうなことも述べている。柄谷行人なども想像力による合成による跳躍について語っていたような気がする。

私はこの論理と感性の関係はとても難しい事柄だと思う。

しかし、とにかくこの問題はすでに芸術作品とそれを見る側の関係に関わっていると思う。そしてまた、メディア・スペシフィックかコンセプチュアリズムで行くかどうかとゆう事柄とも。
ある意味では、抽象表現主義以降からミニマリズムまでのモダニズムは、作品を見る側の存在を眼中に入れて考えられていない。芸術作品を見る側の主観によって生まれる差異を否定して、客観性を追求している。
しかし、ジョセッフ・コスースなどのコンセプチュアリストはウィトケンシュタインなどに言及しながら、見る側によって生じる差異などにも踏み込んでいる。ここに、ミニマリズムとコンセプチュアリズムのはっきりした違いがある。

個人的には、プラットに入るまで、あまりグリンバーグ以降のモダニズムの流れの知識はなかったのだが、それ以前にエイゼンシュタインの映画のモンタージュ理論などをすでに知っていたので、長い間、芸術作品の価値や意味は、それぞれの見る人の、社会的、文化的なバックグラウンド、感性、知識の限界によって違ってくる、とゆうふうに考えていた。また、同じ作品でも、最初に見た時と、それより時間がたってからでは違ってくるものだ、とゆふうなことも思っていた。
しかし、芸術作品が完全に勝手気ままな見る側の主観のみに還元されて語られるだけであったり、ましてや、人間関係や変な派閥に芸術の本質が還元されてしまうのでは問題だと思う。そうゆう意味では、批評的なアプローチを行ったモダニズムの流れや、ドナルド・ジャッドの作品などは芸術史の中でとても重要だと言えるのではなだろうか。

私の作品、" neuronet "をめぐって少し話をしたい。

私の作品はもっともミニマリズムに近いように感じる。または、たくさんの抽象絵画の塊のようでもあるし、何かのコンセプトのコンベイヤー(運ぶ物)のようにも感じられる。

マイケル・フリードは60年代ミニマル・アートやドナルド・ジャッドなどを否定している。なぜなら、それらの作品は絵画とも彫刻ともはっきりと区別がつかなかったからだ。実際、ジャッドは2次元(平面)と3次元(立体)の二元論を超えていこうとする傾向があった。フリードはそういったどちらのメディアともはっきり区別がつきにくい作品を「シアトリカル(演劇的)」と言って否定している。そして、アートは「メディア・スペシフィック(特定)」であるべきだと主張している。

しかし、1987年のディスカッションの中では、ローリー・アンダーソンなどの作品に言及して、「もう少しメディアとゆう概念の範囲をゆるめるか、拡大することができるのではないか。」とゆうふうな事を言っている。

私の作品に関して言えば、私は数百の四角い紙をクラシュ(くしゃくしゃに)して、広げて、ペイントする事を繰り返した。その結果、絵画とも彫刻ともはっきり区別することができないような気がする。また、たくさんのラインも作品の上にできているので、ドローイングの様でもある。また、制作のプロセスを考えれば、少し変わった版画のようでもある。

マイケル・フリードのシアトリカルなものに対する否定は、おそらくグリンバーグの主張する自己限定・純化からきている。しかし、フリードとグリンバーグの間には多くの意見の差異が見られる。
そして、自己限定、本質への還元だけではなく、モダニズムの流れは多様な芸術や視覚に関する重要な問題を含んでいる。

例えば、地と図の関係、視覚と触覚の関係、アンソロポモロフィズム=ボディ、身体の問題、などなど。

地と図の関係に関しては、私は自分の作品とジュリアン・シュナーベルの皿の絵との間に類似点があることを考えた。また、私の作品は遠くで見たときと、近づいて見た時ではかなり違いがでてくるはずだ。

また、四角がニュートラル(中立)な形かどうか、とゆう事柄についても考えた。確かに、絵画、写真、そして映画のスクリーンなども四角だ。しかし、私は四角とゆう形は中立とゆうよりは、むしろフレームの存在を最も気にしなくていい形だと思う。また、本当の中立や客観性には決して到達しないのではないか。私達は常に客観的、と思ったところから逃れ続ける以外に、客観性を追求するとゆうことはできないのではないか。

アートにおけるモダニズムをめぐって少し話をしてみたが、実際、モダニズムをめぐっては膨大なディスカッションが批評家やアーティストによって行われてきているのだろう。そして、私はまだいくつかのモダニズムのコア(核心)をめぐって語ることや、作品を制作していくのは十分可能だと考えている。

広い意味では、こうして話をすることも、モダニズムの自己批判の流れの一部だろう。また、私はあまり、ポスト・モダンかモダンかとゆうことには興味がない。

また、今回私は自分の作品を壁に直接置いてみたが、サイト・スペシフィックやサイト・ジェネレイトとかゆう問題も、それほど変わりはないように思える。毎回、運んだり、設置するのも何だから、いくつかをボードか何かに制作しておくことも考えられる。

ドクメンタ9のディレクター、ヤン・フートはかつて二つのポール(極)について語っていた。一つはドナルド・ジャッド。そして、もう一つはヨーゼフ・ボイス。ジャッドは客観性の極にあり。ボイスは主観性の極にあると。そして、まだ多くのアーティストはこの二人のアーティストとダイアローグを続けているとゆう。

ある意味では、私の作品もジャッドとのダイアローグと言えるかもしれない。
しかし、この作品を作りはじめた動機やアクションは、ボイスに近いと思う。

ボイスは物それ自体よりも、むしろ物の中にあるダイナミズムの世界に興味を持っていた。彼は人間などを含むすべてをエネルギーの流れとして見ていた。

しかし、ヨーゼフ・ボイスに限らず、モダニズムの流れの中で語られるそれぞれのアーティストは、それぞれの個人的なリアリティで作品を作っていたことも十分考えられる。例えば、モンドリアンなどは神智学に傾倒しながら作品を作っていたとゆう。

グリンバーギニズム以降のモダニズムの還元のプロセスは、やや形式的で唯物論的な傾向にある。しかし、プラトニズムや精神的な面から作品を見ると、それは全く違った側面からアートを見ることになるし、芸術作品を解釈する時の、全く異なるアプローチの仕方だと考えなければならないだろう。


東洋と西洋

正確には、アートは人間の文化の一部だ。しかし抽象表現主義以降からミニマリズムまで、アートにおけるモダニズムは文化的な事柄を削り取りながら進んでいった。ただメディウム(媒体)だけが残った。それはもっともなことで、文化的な事柄とゆうものはすべて主観的なものだからだ。
したがって、ジョセッフ・コスースの人類学者としてのアーティスト、とゆう立場はコンセプチュアリズムであるが反動的な位置にある、とある意味では言える。

しかしながら、現実的には多くの人は、芸術作品を見るとき、文化的な色眼鏡を通して見ているのではないか。
例えば、モダン・アートの主な理論を知る前は、ジャッドの作品のシンプルなところは、日本建築のシンプルさと何か共通するところがある、とゆうふうなことなどを思っていた。
アートの世界のアウトサイダーにとっては、芸術作品はこの様に目に映るのではないだろうか。
私は芸術史のルールに沿って作品を見るより、カオスの中で見るのが好きだ。

私の作品を作っている時も、様々な事を文化的な視点から考えた。
私はすでに、自分の作品はミニマリズム、あるいは抽象芸術に近いところにあることを話した。文化的ではないとはいえ、どちらかとゆうとそれはアメリカの、あるいは西欧の文化に属するとゆうことになるのかもしれない。しかし、この作品は多くの東洋の文化のテイストも持っていると思う。この作品は日本のインテリアの障子のようでもあるし、また布の絞り染めなどにも似ているし、手作りの紙などにも似ていると思った。

また、私はしばしば伝統についても考える。なぜなら、私はよく美術館に行くからだ。美術館はつねに歴史に対してドアが開かれた場所だ。
私は本当に古代の芸術、ローマ、ギリシャ、エジプトなどの芸術を見るのが好きだ。また、京都の建築なども好きだ。しかし、私はそれらを完全に過去の芸術として見ている。なぜなら、それらはその時代の現実から生まれてきたものだからだ。そして、芸術は日常の生活から完全には切り離すことはできないと考えている。しかし、芸術は騒がしく、キッチュな現実ともイコールではない。ある意味では、芸術家は時代の囚人だとも言える。
人々は過去の伝統から何を引き継いで行くべきか違う意見を持っている。または、あまり考えていないし、芸術に関する教養もあまりない。私達はコピーは作れないし、完全に時代の流れや過去の作品から切り離された物も作ることができない。私達の時代の芸術とは何だろうか。

そして、近代の国家主義は芸術をそれぞれの国に分けて考える傾向がある。しかし、一つの芸術作品を一つの国に還元してしまうのは、正確には不可能だ。すべての芸術作品はその独自の地理学を持つ。


ジョン・ケージ、ダダ、坂本 龍一

この作品を作っている間、私はジョン・ケージのマッシュルーム・アートについても考えた。
ドナルド・ジャッドの作品はとても重い感じだ。そして、それはある確信を代表しているかの様だ。
しかし、この作品は浮いているキノコの胞子の様だ。軽さ、自然成長性。それは電子回路を回っている情報もそうかもしれない。

ケージ、そしてダダイストにとっても、アクシデント(偶然)はとても重要な主題だった。
私は自分の手で四角い紙をクラシュしていった。それは、偶然を意識的に作っていることかもしれない。反対に、作品を自分の手によって意識的に作ろうとしているのだが、自分の指の間を抜けて偶然が生まれてきている。その様なことを、この作品を作りながら考えていた。

ジョン・ケージはエリック・サティーの同じ曲を840回演奏するとゆうコンサートを行った。その話を聞いたほとんどの人達は、どのようなことが起こるのか分かる、と思ったので現われなかった。ケージや参加する幾らかのピアニストたちも、たぶん唯の繰り返しになるだろうと思っていた。しかしコンサートが終った18時間後、ケージやピアニスト達は本当にその結果に驚いたとゆう。なぜなら、途中から同じ演奏が一回もないことに覚醒していったからだ。そして、彼等の生が完全に変わり、世界が違って見えたとゆう。

そのほとんど同じ時、アンディー・ウォーホルもただキスをしたり、食べたりするだけの作品を作っていた。

この作品を作っている間、これらのエピソードを思い出した。そして、私は何かこの作品を作ることを通して経験してみたかった。正直いって何かははっきりとは言えないが、私は何かを得たように思う。また、私は作品にある種のインテンシティを与えたかった。

ジル・ドゥルーズはおそらくこれに似た事柄を「差異と反復」の中で語っているのかもしれないが、私はまだ注意深くその本を読んでいない。

音楽家の坂本 龍一は電子楽器を使ってジョン・ケージに似た作品を作曲している。実際は、私はジョン・ケージより坂本 龍一の方をよく聴く。この作品のタイトルは彼の歌詞の一部から思い付いたものだ。


時間、可能性

この作品を作っている間、私はこれは何か時間の様なものを表わしていると感じた。何か多くの四角が現われてきて、浮いているような一瞬。または、何かが崩れたり、風化していっている一瞬。可能性を含んでいる一瞬。

そして、私はマイケル・フリードが強調した「プレゼンス」とゆう言葉を思い出した。彼は芸術作品を演劇や映画の様に時間をかけて経験することを否定している。優れた芸術とゆうのは、見た瞬間にそれだと確信されるべきだと。フリードは永遠に突き抜ける一瞬で、芸術作品を経験することの重要性を語っている。時間を超越した経験。

私は少し、ランボーの一節を思い出してしまった。

見つけたぞ!
何を。永遠。
太陽に溶ける海。

また、劇作家の野田秀樹も、

この世で一番速い景色はいつも止まっている。
そして、そこでは、誰も息をしていない。

また、ドゥルーズ・ガタリも、

速くあれ!たとえそこを動かない時でも。

これは、少し異なるかもしれないが、坂本 龍一も、

僕は音が鳴り響いている状態に興味がある...とゆう様な事を言っていたように思う。

私も差異を含んだ一瞬、または時間を超越した経験、とゆうものは魅力的だと思う。
しかし、実際にはそれは想像や神秘主義の世界の中だけで経験できることで、現実には経験することはできない。
そして、フリードの意見ははっきりとここで、作品とそれを見る人との関係を含んでいる。そしてここが、フリードとグリンバーグとの大きな意見の違いでもある。

もし私が一瞬その作品を見た時に、その作品から何も感じなければ、おそらく私はその作品を見ないだろう。しかし、個人的には、私は作品の周りを歩いたり、時間をかけて作品から色々なことを想像したり、考えたりすることは好きだ。特に、インスタレーションなどを見る場合には。

また、この私の作品に関して言えば、私が自分の作品が浮いているように感じたとしても、現実にはこの作品は(展示してある時は)静止している。例え、私の作品が何か差異を示しているようであっても、私の作品は私の作品以外の何ものでもない。現実の空間において、差異を含んだ一瞬をもつ作品を制作することは不可能だ。

しかしながら、アーティストの岡崎乾二郎は、私達は現代社会において、マイケル・フリードのような知覚を必要とする状況があると語っている。
例えば、環境問題などを考える時に。日常生活において環境問題を知覚することはとても難しい。しかし、それはもう現実に亀裂として現在に存在していると。
もし、私達がそれらの現実にもう存在する矛盾を時間と空間の中で認識したら、それらはいつも、予言として現われてしまう。現在の矛盾はサインであって、終りは未来にくると。
また、私達が平和、戦争、平和、戦争、とゆうふうに継続する時間の中でそれらを考えてしまうと、歴史は繰り返してしまう。私達は現在ある矛盾にとどまり、それに耐えなければならないと。矛盾に耐えられなくなるので、終りを要求してしまうと。

そして、これは少し異なるかもしれないが、あるエピソードを思い出した。
1946年にサルトルが一冊の本を出した。しかし、その本にはホロコーストのことは何も書かれていなかったとゆう。なぜなら、当時ホロコーストは、誰もその出来事全体を知ることができなかった出来事だったからだとゆう。
これは、特にナチスについてだけではなく、日本がアジアで行ったことを含むどんな虐殺もそうだと思う。

とにかく、私の作品に関しては、これを見る人が暗い面だけではなく、何か楽しい様々な可能性を感じてもらうことを希望します。


リッチ(豊)とプアー(貧)

この作品を作っている時、私はこの作品は豊かなのか貧しいのか、とゆうことも考えた。
また、私が美術館に行くとき、よく同じ事柄について考える。また、何が芸術において普遍なのかと。

いくらかの人々は安易な結論に達するかもしれない。洗練され、技術の高いものが普遍なのだと。しかし、それが芸術の本質だと言い切ってしまうのは安易なことだし、そういった芸術がすべてでもない。そして、芸術はいつもリッチだとは限らない。ただリッチな人ばかりが世界に生きているだけではないように。実際、現代美術ではアルテ・ポヴェラ(貧しい芸術)とゆう分野もある。そして、芸術は必ずしも美しい、といった感じのものばかりを扱っていない。特に、現代美術では。文学、演劇または音楽の分野でもそれは言えるのではないだろうか。

いつも、x、-x、1/x、1/-x、豊か、貧しい、贅沢、素朴、といった感じで対位法で考えてみるのは、安易な結論に達するのを避けるのに大切な事だろう。

しかし、実際には対位法を持ってきたところで、何も明かにはならないのだが。


その他

色に関していえば、初め地球の青い色とかを考えてブルーを使ってみた。また、コンピューターのモニターの青い色とか。
しかし、特にこの作品はそれほど色には深い意味はない。もし機会があれば他の色を使ったバージョンも作ってみたい。

とにかく、自分の作品をめぐって色々と話してみたが、他の人はこの作品を見て他のことを考えたり、感じたりするだろう。
しかし、私は全く私の作品とは関係のないことを語ったとは思わない。


PROJECT/HOME